千と千尋の神隠し リン

日本映画史に残る名作となった『千と千尋の神隠し』ですけども、本作が制作されるまでに様々な企画が土台となっているのをご存知でしょうか。



スタジオジブリ作品といったら、天才・宮崎駿監督の意思のもと、トップダウンで企画を決めていると思われる方もいるかもしれませんけど、実はそんなことはありません。

制作に至るまでには、数々の企画が検討され、宮崎監督が1年間揉んだ推しの企画でさえも、鈴木敏夫プロデューサーから時代に合わないと判断されればボツになってしまうのです。

『千と千尋の神隠し』といったら、約20年間に亘り興行収入トップの座に君臨し続けた名作ですけども、試行錯誤の末、企画が決まりました。

霧のむこうのふしぎな町

時は1998年3月、スタジオジブリでは高畑勲監督作品の『ホーホケキョ となりの山田くん』を作っていました。
その次に作る作品は決まっておらず、スタジオジブリでは企画会議が行なわれ、柏葉幸子さんの児童文学『霧のむこうのふしぎな町』が検討されていました。
この作品は、一人で旅に出た小学6年生の少女リナが、霧の森を抜けると、洋館が立ち並ぶ不思議な町が現れ、魔法使いの末裔たちが営む商店街で働きはじめるというファンタジー小説です。

この原作は、以前からスタジオジブリのスタッフが読んでいたことから、企画検討にかけられていたと伝えられています。
1995年に公開された『耳をすませば』では、天沢聖司が『霧のむこうのふしぎな町』を図書館で読むシーンが描かれています。

宮崎駿監督は、この原作をベースに『ゴチャガチャ通りのリナ』というタイトルで企画に取り組みますが、これは早々に頓挫します。鈴木敏夫プロデューサーによると、映画として構成するには弱いところがあったとのこと。

煙突描きのリン

そして、次に取り組んだ企画が『煙突描きのリン』です。
この作品は、銭湯を舞台にしたもので、銭湯の煙突に絵を描く18歳の画学生リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語。作品の背景には、美術家・荒川修作さんの影響があり、荒川さんをモデルにした登場人物も描かれる予定でした。当時、宮崎監督は、荒川さんと知り合って間もないころで、対談を通じて意気投合しています。この出会いが、ジブリ美術館の建設にも影響を与えるのですが、それはまた別のお話です。

さて、『煙突描きのリン』の方はというと、影で支配するボスが荒川さんで、敵対する集団のボスは宮崎駿監督自身がモデルだったといいます。
鈴木敏夫プロデューサーによると、宮崎監督が投影されたボスは60歳で、しかも18歳の主人公リンと歳の差を超えて恋に落ちる展開が考えられていたといいます。

この展開は如何なものかと鈴木さんは感じたそうですが、このときは『となりの山田くん』を制作している時期で、新しい企画に関わる時間が無かったそうです。そのため鈴木さんは、「進めておいてください」とおざなりな返事をした結果、宮崎監督は1年間に亘って『煙突描きのリン』のイメージボードを描きまくり、企画を進めていきました。

しかし、1999年に突如として、この企画は中止となります。

『踊る大捜査線』が企画を変えた

『となりの山田くん』の制作が一段落し、余裕のできた鈴木さんは、当時大ヒットしていた『踊る大捜査線 THE MOVIE』を鑑賞します。
この作品では、若者の気分をリアルに表現していることに衝撃を受け、「これが現代か」と思い知らされたといいます。それと同時に、『煙突描きのリン』で描く若い女性が、現代の若者像として説得力を持ちえるのかどうか疑問を抱きます。

鈴木さんは、映画館を出たその足で、宮崎監督のアトリエ「二馬力」に向かいます。
アトリエの部屋の壁一面には、『煙突描きのリン』のイメージボードが貼りつけてあったそうです。
企画を進めてから1年ほど経っているため、宮崎監督は絵を描きまくっていたのでしょう。

しかし、鈴木さんは、その絵には見向きもせず、『踊る大捜査線』の話をします。
『踊る大捜査線』では若者の気分がよく表現されていたこと、若い監督が作ると意識しなくても時代性が出るということ話すと、宮崎監督は察知して、鈴木さんの話を聞きながら部屋に貼ったイメージボードをはがしていったそうです。

宮崎監督が考えた企画を否定するような話し方ではなかったそうですが、鈴木さんの考えていることを読み取ったらしく、1年かけて描いたイメージボードをすべてゴミ箱に捨ててしまいます。

「この企画はダメだってことだろう」宮崎監督はそう言うと、「千晶の話でもやろうか」と提案します。

10歳の子供のために作る

千晶というのは、当時日本テレビのプロデューサーだった奥田誠司さんの娘さんのことです。

今では有名な話となりましたが、『千と千尋の神隠し』の中で千尋が話す、川で靴を落としてしまったエピソードは、当時まだ小さな子どもだった千晶さんが、宮崎駿監督の別荘地の信州で遊んでいるときに、川で靴を落としてしまい、みんなで探し回った話が使われています。

奥田さんとは家族ぐるみで仲良くなっていたため、その娘の千晶さんの生きる道を指し示す、そんな映画が出来ないかと宮崎監督は考えました。

1年間かけて準備してきた『煙突描きのリン』の企画を、一瞬のうちに捨てて、まったく新しい企画を考える。この潔い判断力が、宮崎駿監督なのかもしれません。
そして、『霧のむこうのふしぎの町』と『煙突描きのリン』の要素が入り混じって、『千と千尋の神隠し』が作られました。”リン”という名前も引き継がれて使われています。

こうして、興行収入300億円を超える大ヒット作品が生まれ、ドイツのベルリン国際映画祭では最高賞となる金熊賞を、アメリカのアカデミー賞では長編アニメーション賞を受賞します。この作品から、スタジオジブリと宮崎駿監督の知名度が世界的なものになっていったのです。

もしも、『煙突描きのリン』を作っていたとしたら、どのような作品になって、どのような評価を受けていたか、それはわかりませんが、今とは違うスタジオジブリの形になっていたかもしれないですね。