平成も本日で最後。明日からは新たな元号・令和の時代が始まります。
そこで、平成に思いを馳せるというわけじゃないですけど、「平成」を冠するジブリ作品『平成狸合戦ぽんぽこ』のタイトルについて、ふり返ってみましょう。
『平成狸合戦ぽんぽこ』が公開されたのは、平成6年のこと。まだ平成になって間もないときに映画を作り出し、そしてタイトルに「平成」が使用されることになりました。
高畑勲監督は、この「平成」という言葉にどのような考えを持ち、どのような狙いを持ってタイトルに付けたのか。それは、『平成狸合戦ぽんぽこ』のシナリオ本に収められた、「タヌキ通信」に書かれています。
この「タヌキ通信」というのは、高畑監督が映画を作る際に自分で書いた、映画の設定案と企画書のようなものです。その一部をご紹介します。
本日で終わりとなってしまう、この「平成」という言葉に高畑勲監督は、何を思ってタイトルにつけたのでしょうか。
「平成」はタヌキによく似合う
平成という元号をはじめて聞いたとき、かなりの人は、なんとまあノーテンキな、と思った。しかし、時代はそのなんとも言えない軽佻浮薄な響きそのままに重大なことが重大な重みを感じさせないで右往左往し、いまや人々は飽食肥満と快楽に溺れつつ先行きが見えないまま自信をなくし、途方に暮れて佇んでいる。その間隙を縫って魑魅魍魎が跳梁跋扈しても不思議でない気分が漂い、しかし相変わらず何故か奇妙に軽い時代の嘘くささ、リアリティーのなさは、神々精霊妖怪そのものではなく、それが零落し滑稽化した姿であるタヌキたちがまずパロディー的露払いとして出没することを求めている。まるでタヌキたちは自分たちの再登場にぴったりな舞台として、平成時代を選んだかのようだ。不快な「平成」の元号は、不快なまま、いまの時代の気分に妙に相応しく、激動の昭和には似つかわしくなかったタヌキたちも、「平成」が軽佻浮薄だからこそ、出てきて当然というカオをして平成の世に出現出来るのだ。まさに「平成」はタヌキによく似合う、のである。
この意味で、タヌキをやろうと言い出した企画者とプロデューサーは、まことによく時代の空気を察知し、摑むことの出来る人たちであると言わねばならない。
以上が、高畑勲監督が語る「平成」をタイトルに使用した理由でした。この先も、まだ文書は続きますが、詳細は書籍でご覧ください。
「平成」という言葉を聞いたときに、どこか気の抜けた感じはわからなくもないですけど、高畑監督にとってその気分は無くてはならないものだったようです。
ここで監督が言っている、企画者とプロデューサーは、宮崎駿監督と鈴木敏夫さんのことですね。
平成は今日で終わり、明日から令和となりますが高畑勲監督が生きていたらどう感じたのでしょうね。
総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ 映画の決定稿となったシナリオ、タヌキ通信を収録 |