鈴木敏夫海事図書を専門とする出版社、“成山堂書店”のWebサイトにて、鈴木敏夫プロデューサーのインタビューが公開されています。

鈴木敏夫さんにまつわる話から、新作『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』を作るに至った経緯を語っています。



――今回は、作品のお話だけでなく鈴木さんご自身の事も存分にうかがいたいと思います。大学を卒業して、徳間書店に入られました。それは、前々から決めていた事なのですか。

鈴木:
就職の時期を迎えると「何をしようかなぁ」と思って。典型的なモラトリアムで、何も考えてなかったです。「それが普通じゃないか」という気が、どっかでしていたのですけれど、自分は何に向いてるか、多少、考えてもやりたい事が何にもなかったのです。それで、ある時、寝っ転がって新聞を読んでいたら徳間書店の社員募集があったのです(笑)。それで、「受けようか」と思っただけなのです。

(略)

――目の前に出てきたものを、どうしたら面白くなるかと自分自身で考える所は、学生の頃からおありだったのですか。

鈴木:
実は、あまり主体性がないのですよ。

だから、アニメーションとの関わりもそうなのです。もちろん、子供の頃に『鉄腕アトム』や『エイトマン』を見てはいましたが専門的に勉強したわけではありません。最初は、アニメーションの「ア」の字も知らなかったのです。先輩に、「アニメーションの雑誌を創刊するから、敏ちゃん、やってよ」って言われて、「じゃあ、しようがないな」と考え始めたのです(笑)。

そうしたら、その先輩編集者が、「アニメーションに詳しい女子高生がいるから紹介するよ」と言われ、3人位の女子高生に話を聞いて企画をつくっていったのです。当時は、『宇宙戦艦ヤマト』がヒットしていました。だから、アニメーションをクラス全員が見ていると思っていたのです。しかし話を聞くと、「クラスで2、3人」というのです。それで、まず、「あれ?」と思ったのですよ。

(略)

――恐らく30人程のクラスの数人の話題。それは需要として、少なくはないのでしょうか。

鈴木:
僕は、逆に、需要の少ないものに、あらゆる商いのヒントがあると思います。

――どう考えればよいのでしょう。

鈴木:
みんなが、何となく好きなものに広がりを持つ可能性は少ないのではないでしょうか。要するに、周囲から白い目で見られる事によって、強烈に、そのアニメーションを好きになる。するとアニメーション雑誌をやれば、その人達の力になる事ができる。雑誌を真剣に読んでくれると思ったのです。
だから、今はマイナーでも、あるやり方をすれば、それがメジャーになる、わかりやく表現すれば、大ヒットするという流れが世の中にあるという事ですね。

――しかし、それは、いわゆる世間一般の発想の逆ではないでしょうか。

鈴木:
いや、そうではないと思います。多くの人が、欲しがるものを人は強烈に欲しがったりしません。だから一部の人が好きなものの方が、多くの人が本当に好きになる可能性があるのではないでしょうか

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鈴木:
そんなこんなで雑誌を作っていくうちに高畑勲、宮崎駿の二人に出会ったのです。宮崎駿は、『カリオストロの城』、高畑は『じゃりン子チエ』を作っていました。
今でこそ言うのですが、二人とも世間から注目を浴びていたわけではありませんが、大変な才能を持っていると感じました。当時、雑誌の編集者だったのですが、「この人達にはいずれ、大きな光が当たるはずだ」と思いました。

――お二人に何を感じたのですか。

鈴木:
喋ってみるとわかるのです。まず、第一に、物をよく考えている。また、沢山の本を読んでいます。本を読んだ上で色々な事を考えているのです。そして、絵が上手い。しかも、宮崎駿と付き合ってわかったのは最初から上手かったわけではないという事です。

――自分で、何度も描いて勉強をされたという事でしょうか。

鈴木:
やはり努力しているのです。もともとの才能もあったのでしょうけれど、それを磨いた。宮崎駿は、男4人兄弟。一番下の弟は、絵が凄く上手かったらしいのです。弟に比較したら自分が下手。それを克服するために、高校生の時に絵の先生を見つけて5年ほど塾へ通ったのです。当時、彼の家は東京の永福町にあって、塾に行きつつ帰りに吉祥寺の井の頭公園に寄って、毎日、スケッチをしたらしいのです。

(略)

――高畑さんは、どうでしたか。

鈴木:
彼は凄いインテリで、物の考え方が素晴らしかったです。僕なんか読んだ事のない本ばっかり読んでいるのです。文化人類学の書物、哲学書…。僕なんか、手に取り易い、本ばっかり。この人達は、とにかく物事の本質を学ぶ事が好きなのだと思いました。

――(笑)。例えば、どんな本を読んでいらっしゃったのですか。

鈴木:
宮崎駿は、文化人類学者であり、植物学者でもある中尾佐助という人の本を読んでいました。この方は、日本で初めてフィールド・ワークをやった人と言われています。僕も読んだのですが、「日本は東西で生態系が異なる。ここは照葉樹林帯」というような事が書かれていました。例えば、こうした本を読む事が『ナウシカ』のような作品につながっていくのです。こうした背景があるから、ヒール物を描いたストーリーであっても、根っこに思想がある作品になるのです。

(略)

 

『風立ちぬ』作成の経緯

――作品のモチーフというのは、どういう所から出てくるのですか。

鈴木:
比較的に素朴な疑問や話題が出発点になる事が多いですね。今回の二つの作品について言えば、『風立ちぬ』は、最初、僕が宮崎駿を説得したのです。彼は、最初、必ずしもこの作品を作りたかったわけじゃないのです。ある模型雑誌の片隅に宮さん自身が漫画を連載していました。僕がそれを読んで、「これを映画にしたら面白い」と思ったのです。
そうしたら、彼は怒り出した。その漫画は、ゼロ戦を設計した人の話だったので、当然、その時代背景に触れなければならない。1930年代は戦争の時代です。
宮崎が反対した最大の理由は、「アニメーションは子供のためのもので、大人のものを作ってはいけない」という考え方が彼の中にあるからなのです。だから僕が、「これを映画にしよう」と言った時、「何を考えているのですか」と怒り出したのです。
では、どうして僕が作りたかったのか。それは宮崎駿が戦争に対して、どういう考えを持っているか、知りたかっただけなのです。

――それで映画にしようと考えられた。

鈴木:
そうです。作品の中でどう表現するのだろうと、そこに僕の好奇心があったのです。作ってもらうと、やはり、面白いです。
彼は、昭和16年生まれで、戦争の事を本当には知っていない。ただ、子供ながらにね、感じていた事はあるのでしょう。日本が復興する時代に思春期を迎えています。だから、戦闘機の絵を描いたり、軍艦の絵を描く事が好きだった。
高校、大学時代は、世の中が反戦の時代であった事から反戦運動にも携わっているのです。そうすると、趣味としては兵器、しかし思想的には反戦。言ってみれば、相矛盾した所があるのです。そういう人が、戦争についてどういう作品にするのかという事は、興味がありますね。
ただ、これは僕の非常に個人的な興味なのです。しかし、この関心は、多くの人にも通じるのではないかと思っているのです。

 

『かぐや姫の物語』作成の経緯

――高畑勲監督の『かぐや姫の物語』の方はどうでしょう。

鈴木:
高畑は、付き合った人でないとなかなかわからないのですけれど、よい作品を作ってくれますが、「あぁでもない。こうでもない」と考えを巡らせるタイプなのです。そうした時に、もう亡くなられたのですが、日本テレビの氏家齊一郎さんが、「高畑さんで作りたい。俺が死ぬ前に作ってくれ」と言われて、「どうしようか」と考えたのですけれど、やろうとなったのです。
最初は、『平家物語』を作品化しようとしたのです。しかし、『平家物語』には、人と人の殺し合いのシーンがある。そしたら、自分が当てにしていたアニメーターが「そういうものは描きたくない」と言うのです。しようがないので、「じゃあ、何を描きたいの」ときくと、「子供を描きたい」という。
それで悩んでいた時に、高畑さんが以前に、「かぐや姫は、ちゃんとした映画は1本もないですね」と言っていた事を思い出したのです。それで、「誰かが作るべきだな。だとしたら、高畑さん、かぐや姫はどうなんですか」と話をしてみたのです。本人は、最初は、そんなに乗り気ではありませんでした。しかし、何度も説得して「やりましょう」となったのです。ただ、高畑さんは、自分がそのアイデアに自分が乗り気でなくても面白い事を言い出す人なのです。ある時、僕に聞いてきたのです。
「かぐや姫は、月の人でしょう。数ある星の中で、なぜ地球へやってきたんですか」と。
こう言われると、答えが出ない。「なんで、ですかね。難しいですね」と。

その後に、「なんで一定期間いて、月に戻ったんですか?」という。これもわかんない。そうかと思うと「地球へ来て、彼女はどんな気持ちで、毎日をどう生きてたんですか?」って言われたのですよ。これも、また、わからないのです(笑)。
最後に高畑さんが言い出したのが、「そもそも地球へやってきたのは、彼女が、地球に憧れたからじゃないか」と。それで、「月の人が地球に憧れる事は罪だろうと。だから罰として地球へ送り込まれたんだろう」と。「では、なんで、また元に戻らなければならなかったのか。多分、もう一つ、本当の罰があったのかな?」という。
こんな事を言われると、「面白そうですね」という事になるわけですよ(笑)。