君たちはどう生きるか

宮崎駿監督の10年ぶりとなる新作『君たちはどう生きるか』を観てきました。

ネタバレありありで感想を書いていくので、まだご覧になっていない方は、鑑賞後に戻ってきていただければと思います。



さて、2013年の『風立ちぬ』を最後に引退したはずの宮崎駿監督ですが、あるとき鈴木さんに「ジブリは映画を作らなきゃいけないよ」と言い出し、引退宣言も早々に2016年に『君たちはどう生きるか』の企画書が書かれます。2017年には制作開始と、延べ7年の歳月をかけて公開されました。

あまりにも待っている期間が長いために、同じ時間をループしてるんじゃないかと思いました。

『君たちはどう生きるか』の原案

なぜ引退した宮崎監督が突然引退を撤回したのか。

鈴木敏夫著『ジブリの文学』のあとがきには、宮崎監督はアイルランド人の書いた児童文学を読み、その本に刺激を受けたことから映画化を提案したといいます。
その本というのは明言されていませんが、ジョン・コナリーの『失われたものたちの本』ではないかと思われます。

宮崎駿監督が帯の推薦文を書いていることでも知られていて、ジブリ美術館でも販売されていることから、ジブリファンの間では原案になった本として周知されていました。

ジブリの文学 失われたものたちの本

内容のほうはというと、舞台は第二次大戦下のイギリス。母親を亡くした少年のデイヴィッドが、死んだはずの母親の声に導かれ、幻の王国に迷い込むというもの。そこは、おとぎ話の登場人物が生活する、物語の世界。そこでデイヴィッドは、木こりと出会い冒険へと出る。

対する『君たちはどう生きるか』は、太平洋戦争下で母親を亡くした少年の牧眞人が、アオサギに導かれて、あの世と思われる世界に入り込む。そこは、おとぎの国のような異世界で、キリコという女性と出会う。
この物語の流れを考えれば、参考にされていたのは間違いなさそうです。

以前、宮崎監督はドキュメンタリー番組で、ある本について、「何度も熱読したからね。こういう世界のつかまえ方、描き方があるんだなって、何もなくなったわけじゃないなって」と触発されたことを明かしていました。
かねてから、主人公が異世界に入り込むときのパターンというのは擦られすぎていて、面白くないと。そこで見つけた新しい切り口というのが、この『失われたものたちの本』だったと思われます。

舞台は太平洋戦争下

公開前には、物語の舞台は一切明かされていなかったのですが、実は2019年に公表された1枚の絵から、舞台は太平洋戦争下ではないかという予想が、ジブリファンの間では出ていました。

1枚の絵というのは、ジャズピアニストのジョバンニ・ミラバッシ氏に提供された、「MITAKA CALLING -三鷹の呼聲-」というCDジャケット。これは、スタジオジブリ作品の楽曲をカバーしたアルバムで、ミラバッシ氏と親交のあった宮崎監督が提供したことで話題となりました。

君たちはどう生きるか

この絵が、燃え盛る街並みと少年というもので、新作のイメージボードを提供したのではないかとみられていました。

そういったことから、事前情報まったく無しといった触れ込みですけども、ある程度の情報が集まっていました。

いざ、映画が始まると冒頭からイメージボードのシーンがやってきて、おおやっぱりか、なんて思っているのも束の間、宮崎駿監督のアウトプットの博覧会といった映像の連続。これまでに蓄えたイマジネーションの在庫を、惜しみなく放出しているような印象を受けました。

その宮崎監督のアイデアを映像化した作画陣の皆さんにも感服します。エンドロールには、作画監督の本田雄さんをはじめとして、安藤雅司、井上俊之、大平晋也、賀川愛、高坂希太郎、近藤勝也、田中敦子、山下明彦、稲村武志、米林宏昌(敬称略)など、そうそうたるメンツが並んでいます。ただ、思ったより人数が少ないように感じました。少数精鋭で作っていたのかもしれません。なにしろ、作画に入ってから長かったですからね。

異世界に入るまでの展開というのは、新しい切り口を見つけたというだけあって、さすがの面白さがありました。前半と後半で、まったく違う映画に切り替わるというのは、たしかに宣伝を打たないほうが面白みがあります。
事前に鈴木さんは、冒険活劇ファンタジー映画であることは公言していましたけど、これも言わないほうがインパクトが大きかったんじゃないでしょうか。

あの世

宮崎駿監督は『千と千尋の神隠し』の頃から、ことあるごとに「あの世」を描いてきました。
今回もあの世が登場するに違いないとは思っていましたが、それが想像以上にちゃんとあの世です。比喩としてのあの世じゃなくて、『すずめの戸締まり』と同じくらい、あの世です。
実際に、一度そっちの世界を覗いて帰ってきたかのようなリアリティ。ただ、これから生身の肉体に入ると思われる霊魂のワラワラの居場所でもあるので、魂の浄化場所のようなイメージもありました(それをあの世と言うのかもしれない)。きっと、みんな一度はこの世界を抜けて、人間の世界に行くのでしょう。そして死んだら戻ってくる。

その生命の誕生と死を思わせる世界には、『海獣の子供』という映画が思い浮かびました。映画の内容はまったく別物ですが、これもずいぶん観念的な作品でして、生命の秘密に触れるような試みであったり、生命というものに関するとらえ方や、非常に言語化しづらいものを映像で表現しているところに通ずるものを感じました。米津さんの歌詞にもある「大切なことは、言葉にならない」ということだと思います。
偶然ですけど、この作品も音楽は久石譲さんで、主題歌が米津玄師さんなんですよ。

以前のドキュメンタリーで宮崎監督は、新作について「何が何だか全然わかってないけど、モヤモヤと、あっちのほうに行くんだ。そこには入ったことがないってところに行くんですよ。触れてこなかったところに、触れるんですよ」と話していました。
これはきっと、あの世のことと亡くなった母親のことだったのでしょう。このふたつのテーマに真っ正面からぶつかること。

母親

宮崎駿監督といえば、ことあるごとに母親を投影したキャラクターを登場させてきました。

監督自身がインタビューで話しているように、母親はカリエスで身体を悪くしていたため、子供時代に寂しい思いをしたことを明かしています。
甘えたいときに甘えられなかったという思いが募り、映画では亡くなった母親を登場させるようになります。『天空の城ラピュタ』では若き日の母親をシータに、精神的な強さをドーラに投影しました。

そのほかにも、『となりのトトロ』の草壁ヤス子、『崖の上のポニョ』のトキさんと、さまざまなキャラクターに母親の面影を重ねてきました。

そして、本作の主人公・牧眞人の母親は、物語冒頭で火事に巻き込まれて死んでしまいます。
母への思いを募らせた眞人には、もちろん宮崎監督が投影されいて、その母親・ヒミには監督自身の母親が投影されているとみるのが自然でしょうか。

シータにも少女時代の母親を投影してきましたが、今回は物語の設定上も主人公の母親です。なんだか、とても際どいものがあります。
ここまで真っ正面から、母親のことを描いたのは初めてじゃないでしょうか。
眞人が母親をとり戻すと同時に、宮崎監督も母親をとり戻す物語と受け取れました。

宮崎監督は、これまでにも作品を作ることで、いろいろな抱え込んだものを手放してきましたが、今回はついに母親への想いから解放されたのだと思います。

そして今回は、宮崎監督の父親も登場しています。眞人の父は戦闘機工場で働いており、自宅には戦闘機の風防を持ってきています。あれは、宮崎監督の幼少期の記憶をそのまま再現したものと思われます。
監督の実際の父親・勝次さんは、軍用機の部品を作る工場を経営していたことから、自宅の土間にはゼロ戦の風防が置いてあったといいます。当時子供だった宮崎監督には何かわからなかったそうですが、キラキラしていて綺麗だった記憶があり、後に風防だったと気づいたそうです。

宮崎監督は、この映画で両親との別れの挨拶をしたのだなぁ、と感じました。

それぞれのモデル

眞人の疎開先にある謎の塔。きっと、イメージの源泉は江戸川乱歩の『幽霊塔』だと思いますが、比喩としてはスタジオジブリを表していると感じました。

そして、大叔父は宮崎監督で、高畑勲監督で、森康二さんぽくもあった。複数の人物が投影されていそうですけど、「13個の積み木」に関してはおそらく宮崎作品じゃないでしょうか。こちらの13作品のことを指しているんじゃないかと思われます。
未来少年コナン、カリオストロの城、風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、となりのトトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、崖の上のポニョ、風立ちぬ、君たちはどう生きるか。ただ、ジブリ作品以外も入っているので、根本の考察が間違っている可能性もあります。

そのほか登場キャラクターも、それぞれモデルがいそうな感じがします。何でも教えてくれる優しいキリコは、きっと高畑勲監督。あのお墓に関しては、きっとそういう意味があるんだと思います。いや、何の確証もありませんが。

そして、制作時からずっと言われていたことですが、「鈴木敏夫さんがモデルの人間じゃないキャラクター」というのは、当然アオサギ。主人公・眞人には、宮崎監督だけじゃなくて、吾朗さんやお孫さんも投影されているように感じます。それでいうと、眞人を異世界に引きずり込んだアオサギは、アニメーション業界に吾朗さんを引きずり込んだ鈴木さんと重なります。

お屋敷にいるお婆ちゃんたちは、東映動画時代の女性スタッフでしょうか。ナイフの研ぎ方を教えてくれたお爺ちゃんなんかは、大塚康生さんかと思いました。

ペリカンは何だろう。「我ヲ學ブ者ハ死ス」の門をこじ開けて、中に眞人を入れたこと考えると、アニメーターということでしょうか。
そうすると、やけに貫禄のあったペリカンが気になるところです。これこそ森康二さんか、それもとも大塚康生さんか、いや近藤喜文監督も考えられそうですね。
そう考えると、「ズタボロにしてごめんな」という宮崎監督の声がきこえてきそうです。

最後に、怒ってすべてをぶっ壊してしまうインコ大王はなんでしょうか。スポンサーか、広告代理店か、もしくは観客か。否、いい加減に語っているので、これらすべて外れているかもしれません。真に受けないでくださいね。

ここら辺のことも、もう少し鑑賞を重ねて考えたいところですね。いずれ関連書籍が発売されたら、答え合わせができるかもしれません。

悪意

珍しく宮崎駿監督は人間のもつ「悪意」を描いています。これは、これまでの作品には感じられなかったことです。
宮崎さんの作品に登場する主人公は、みんな健やかだ。ここまで真っ向から悪意と向き合う主人公というのはいなかった。

ぶう垂れた主人公の千尋や、精神状態が不安定なハウル、大勢を死なせてしまう兵器を作った堀越二郎にも、悪意はなかった。

不条理な運命に合う主人公といえば、これまでにはアシタカがいた。だけど彼も、悪意というものに支配はされなかった。むしろ、「憎しみに身をゆだねるな」と周りを窘めるような人間だった。ところが眞人は違う。
良い母になろうと振る舞うナツコに対しても、眞人の態度は素っ気ない。子供である彼には耐えられないところがあり、悪意のある態度をとってしまう。
今までのジブリ作品に、ここまで悪意を表し、憎悪に囚われる主人公はいなかった。
ウソばかりつく友達のアオサギにも悪がある。みんな悪をもって生きている。ピュアに見えるもの、美しく見えるものの裏側にも悪がある。綺麗な世界には鳥の糞はなかったけれど、元の世界に戻ると糞まみれの世界が待っている。眞人は最終的に、自分の悪意を認めて前を向く。

宮崎監督、ありがとうございます。悪意と鳥の糞尿にまみれた世界ですけれど、元気に生きていきます。

集大成?

この映画自体は、遺言の側面を強く感じる。すべてが宮崎監督からのメッセージ。「俺はこう生きてきたけど、君たちはどう生きるか」と問うている。
源泉から出たそのまんま、純度120%の宮崎駿監督がいる。『風立ちぬ』のときが100%だと思っていたのに、もっと濃いから今回は120%。まさに集大成。ここまで集大成感を出してくる? という映像とメッセージの連続。『風立ちぬ』では終われなかったという、その気持ちが伝わってくる。
人は皆いずれ死ぬ。だから、そのときまでに持ち物を渡していかなきゃいけない。知識、知恵、技術。これらを次の世代に渡したい、という宮崎監督の思い。そして、最後にアオサギは、異世界から戻ってきた眞人に「おまえ、あっちのこと覚えてるのか? 早く忘れろ」と言った。これには、いつまでもジブリ作品ばっか観てんじゃないよ、と言われた気がした。そしてあっさりと去っていく。「あばよ、友達」と。今回こそ、これで終わるのかという、宮﨑監督からの別れのあいさつのように受け取れた。

観終わって少しの寂しさが残る。

いやしかし、まてよ。
「飛行」ということに関しては、これまでの作品と比較しても軽いものだったような気がする。何かやり残してはいないだろうか。1997年当時、集大成といわれながら、『もののけ姫』では空を飛ばなかった宮崎監督に対し、「引退なんて話にならん」と言い放った高畑勲監督を思い出す。

そうだ、宮崎監督、次は空を飛びまくる映画を作りましょうよ!