『風立ちぬ』二回目の鑑賞をしてきました。ようやく感想を書きます。
一回目と違って、内容を知っているので、落ち着いて観ることができました。
ネタバレありありで書いていくので、まだ映画を観ていない人は、読まないほうがいいかもしれません。
二回目の鑑賞で、作品の印象が大きく変わったわけでもないんだけど、庵野さんの声と、二郎がよく見る夢のシーンについては、すこし印象が変わりました。
二郎の声は、子供時代から青年期にかけて、大きく声変わりしてしまうので、最初はちょっと違和感があったけれど、今回は馴染んでいました。
それから、あの夢は、夢であって夢ではないというか、二郎にとっては現実と同じであることに、二回目の鑑賞でようやく気がついた。
堀越二郎にとっては、ジャンニ・カプローニが師匠であって、ロールモデルのような存在。二郎は、夢と現実を混同して生きている人なんじゃないかな。天才の世界観が表現されていると思った。
あれなくして『風立ちぬ』は成立しないんだなぁ、と。
この映画のキャッチコピーは「生きねば。」で、これをつけたのは鈴木敏夫プロデューサー。
このコピーをつけるにあたって、カプローニが二郎に向かって盛んに言う「力を尽くして生きなさい」を翻訳したとのこと。
そして、このセリフも宮崎駿監督が、旧約聖書の伝道の書・9章10節 「凡て汝の手に堪うることは力を尽してこれを為せ」から引っ張ってきたもの。
このことについて、『風立ちぬ』の完成報告会見で、宮崎駿監督がこんなことを言ってました。
劇中に「力を尽くして生きろ」というセリフが出てくるんですが、これは僕がこの作品を作っている時に、旧約聖書の伝道の書の「凡て汝の手に堪うることは力を尽してこれを為せ」という言葉から引用したもので、その後に「待ち時間は10年だ」と続けています。勝手に10年って言っておきながら、自分の10年はどこにあったんだろうと思いましたけど(笑)。長生きだからいつまでも年月があるわけではない。その時に一生懸命生きなければだめなんだと思います。
節々に毒ッ気はあるけど、まさに映画を観て感じたことは、「生きるとはこういうことだ」っていう、メッセージだったかな。
夢や憧れだとか、ものづくりにこれだけの執念を持てるか?
人にこれだけの愛情をもって生きられるか?
といった問いが、宮崎駿監督自身が語り部となって、伝わってきたように感じた。
特に、これまで宮崎駿を追ってきた人たちには、あぁ、ここまでいったのかぁ。
っていう、感慨があるんじゃないかな。矛盾に満ちても、ブレない人だなと思う。
堀越二郎は、ただ綺麗な飛行機が作りたかった、生粋のエンジニア。
だけれど、時代の境遇によって、殺人兵器を作ることになって、大きな挫折を味わった人。
映画公開前に、宮崎監督が堀越二郎について語っている記事があって、そのなかで「その時代に、もっとも才能のある人間が、もの凄い挫折を味わった」ということを話していて、堀越二郎の挫折がピックアップされているけれど、この映画には堀辰雄だってずいぶん投影されていると思う。
堀辰雄も、大きな挫折を味わった人で、関東大震災で被災して母親を亡くしているし、師を自殺で失う。
ようやくできた恋人も、結核を患っていて病によって殺されてしまう。
身近な人をつぎつぎ亡くして、絶望感を味わいながら、それでも「いざ生きめやも」でしょう?
堀辰雄の優しさと愛情深さに、泣けてくる。
サナトリウム文学と呼ばれて、病弱で弱々しいイメージを持たれていたらしいけど、“強い人”っていうのは、こういう人かなと思う。
二回目の鑑賞の間に、小説『風立ちぬ』を読んで、堀辰雄についてちょこっと調べたりしたもんだから、映画で描かれていた夫婦の愛情は、堀辰雄にだいぶ感情移入してしまった。
その婚約者の矢野綾子さんとの経験を題材にした、小説『風立ちぬ』では、主人公を語り口に、堀辰雄はこんなことを言っていた。時代は戦争のなかで、恋人は余命長くないことを知りながら看病していたときのこと。
おれたちがこうしてお互いに与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、そういった誰も知らないような、おれたちだけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分かるだろう?
映画では、この部分が、ストーリー全体を通して表現されていたと思う。
他にも挙げるときりがないのだけれど、ちょっと狂気染みた、美しさへの追求みたいな面が、小説『風立ちぬ』には感じられた。ここでも、堀越二郎と堀辰雄はシンクロしていると思った。
それから、前を向いていくということも、この物語から拾っているのかな。
与えられた境遇で、人は前を向いて生きなければいけない。というような。
自分のなかに絶望を持ちながら、どう生きるか考えなければいけない。というような。
それが、最後のカプローニと菜穂子のセリフ、「君は生きなければならない」「あなた、生きて」になるんだと思う。
どう生きるかという部分においては、『もののけ姫』とも似た文体だった。
この映画は、わざと悲しい場面を作り、無理に泣かせようとはしない。
ひとりの人間が“生きる”ということを、リアリティをもって描いた映画だと思う。
二回目を観て気づいたこと。
菜穂子が二郎と再会して、虹を見たときに、「生きているって、素敵ですね」と呟くシーンは、自分が長く生きられないことを覚悟していることが分かって、切なかった。
他の人には分からない、風のような人生でも、生き切らなければならない。
エンディングテーマの『ひこうき雲』の歌詞と、おそろしいほどシンクロしていた。
映画館で、号泣している人がいて、身近な人を亡くした経験があるのかなと思った。
ジ・アート・オブ『風立ちぬ』 映画美術で描かれた大正と昭和の情景。イメージボードや背景美術、美術ボード、キャラクター設定画などを完成場面写真とともに掲載。アフレコ用完成台本も収録。 |

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2013年7月28日 at 6:28 PM
私も同じような感想を抱きました。
私は初見の印象ですが、あっという間に終わってしまった感があって、え、これで終わりなの、と思いました。そこら辺は、よく知りませんが、原作漫画の構成とも同じだとか。
確かにファウスト的枠組みを感じるのですが、もっとこう、これが生きるということなんだ、というものを私も見せてもらったような気がしました。
私はもう届けても仕方がない手遅れのジジイにすぎませんが。
私は宮崎監督の作品より富野作品に影響を受けた人間なので、つい富野作品を想起してしまうのですが、
風立ちぬを受けて連想したのは、リーンの翼でした。
ノベルスのほうでのファウストに言及した富野監督のコメントつがなりとか、
それから映像的にはラストのヒロインが消え去る辺り、あとまあ時代背景とか。
ただそれぞれがまったく別の描き方をしてるのが興味深いなと。
例えば、上記のファウストに関して言えば、リーンは2部構成のゲーテのを、
風立ちぬは、WW2を重ね合わせるトーマス・マンのほうのを連想しました。
でも、風立ちぬのラストシーンは、セリフ変更と言われている話も絡めて、高橋源一郎さんの感想を目にして、そういう解釈もあるのかと思いましたし、物語全体として、単に悲劇的ではない、何かしら見るに値した肯定的なものがそこにあったのではないかと思いました。
なので、私のようなジジイではなく、難解というので敬遠されずに(私はシンプルな物語だと思いますが)、これからを生きる若い人たちに見てもらいたいと他人事ながら思いました。
長文失礼しました。
2013年7月29日 at 2:19 AM
コメントありがとうございます。
二回観て、一応自分なりに『風立ちぬ』を受け止めたので(溢してるもの多すぎですが~・・・^^;)、今はいろんな人の風立ちぬ評を読んで回っています。
ちょっと、この作品は、いろんな文脈から理解していきたいと思っていたので、投稿者様の感想も参考になりました。ありがとうございます。
トーマス・マンは、これから読もうと思っています^^
確かに、この作品は悲劇だけじゃない、肯定的なものを感じますね。
それと同時に、虚しさみたいなものも感じます。
だけど、その“虚しさから”始まるんだって言われているようにも思いました。
考えれば考えるほど、ぐるぐるしてしまうんですね、この作品。
2013年7月29日 at 7:19 PM
こちらこそありがとうございます。
我ながら柄にもないことを投稿してしまって反省してましたので、ご返答を頂けてとても救われた気分になりました。
ネットでいくつかの感想を目にして、ファウスト的物語構造による残酷さを取り上げているものが多いなかで、
それだけこちら様のご感想が目を惹き、自分の印象と近しいものを感じたので、つい分をわきまえず書き込んでしまった次第で、すみません。
アニメというのものが、その本質に、虚無的なロマン主義的要素をはらんでいて、「風立ちぬ」がもし巨大な墓所的な作品だとしたら、
トーマス・マンを読むことにも意味があるのかもしれませんが、「風立ちぬ」の中にすでにそれを乗り越える肯定的な何かがあるのではないか、と直感だけはします。
それが虚しさから始まる何かなのかもしれません。
もうすでにお読みになっているかもしれませんが、いきなり「魔の山」というよりは、
分量的にも堀辰雄的に美しい青春の書「トニオ・クレーガー」辺りから読み始めることをお勧めしておきます。
それでは、誠に失礼しました。
2013年7月30日 at 2:07 AM
レビューをいろいろ読んでいると面白いですね。
投稿サイトを含め、ブログや特集記事を読んでいるんですが、深く読み込んでいる方も多く、参考になります。
どうも自分は、堀辰雄の文脈から紐解いていくのが心地良いようです。
アニメのロマン主義を乗り越えた“何か”がある。とのご意見も、そのとおりだと思いました。
以前、庵野監督のエヴァンゲリオンに対して、宮崎監督は「庵野は正直に作って、何も無いことを証明した」というようなことを言っていたのですが、「おれは、正直に作ってもこれだけあるんだ」と答えている気がするんですね。
達成できない虚しさに大事なものがある、と伝えているんだと思うのですが、それを語る言葉が、ぼくには無いんですね^^;
それから、お勧めの書籍を教えていただきありがとうございます。「トニオ・クレーガー」ですね。探してみます。
『風立ちぬ』のなかで、カストルプだけがどうも掴みどころがなくって、「魔の山」から読もうと考えていました。
他の登場人物は、すごく分かりやすかったんです。宮崎作品らしい人たちばかりで。
だけど、カストルプについては引っかかるところも多く、ドイツ人のスパイらしきことは分かるのですが、紙飛行機のくだりなどで分からないことが多すぎたもので・・・。