4月25日に千葉・幕張メッセで開催された「ニコニコ超会議 2015」にて、庵野秀明監督と川上量生会長が、アニメの“情報量”をテーマに対談を行ないました。司会は、アニメ・特撮評論家の氷川竜介さん。話は、宮崎・高畑作品や、『エヴァ』に、「アニメ(ーター)見本市」まで、多岐に渡っております。川上さんは、ほぼ聞き役に徹して、庵野監督の元気な姿が印象的でした。
アニメの情報量というテーマは、川上さんの著書『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』が切欠とのこと。出版社から宣伝を頼まれ、庵野監督とアニメの情報量について話すなら面白いと思った、と川上さん。本の延長上の話もできると思い、この対談を企画したそうです。
庵野監督が心がける、アニメの“情報量”とは、どういうことなんでしょうか。
庵野監督の発言をまとめました。
アニメで「情報量」という言葉を使い始めたのは庵野秀明
- 「アニメスタイル」という雑誌が創刊され、『エヴァ』の作り方を説明するとき「情報のコントロールが大事だ」と話した。業界人がたくさん読んでいて、だいぶ反発された。アニメは情報なんかじゃないと。褒めてくれたのは、押井守監督くらいだった。「庵野は、バカだと思ってたけど、賢かったんだ」と言われた。
- いまは「情報量」という言葉が定着した。これまでアニメは、熱意・想い・情熱によって作るものだと言われていた。それがあったうえで、“情報”だと思う。映像自体は科学的なもの。理屈によって作っている。
- フィルムがあって、こう繋いだら面白いと感覚でやっていくけれど、過去に観たものがこう繋がっていた、ということを記憶の感覚でやっている。この画のあとには、この画があったと。それを続けていくと、理屈が見えてくる。理屈といいながら、ルーティンかもしれないが。
- 映像作品は、ストーリーも含めて情報量。それをすべてコントロールするのがアニメーション。実写は、コントロールしきれないとこがいい。しかし、アニメはすべてコントロールできるところがいい。
- 複雑なストーリーにするか、単純なストーリーにするか、そこに情報量がある。
- お客に何を伝えるかによって、情報量のコントロールをする。お客を誤魔化すときは、情報量が多いほうがいい。情報量が多いと全体を見る。
- アニメ見本市で鶴巻がやっていた(I can Friday by day!)のが、情報量のコントロールでいいお手本。背景に関しては、あまり描き込んでいない。キャラクタを立てるには、背景を薄くする。背景は場所がわかればいい。それ以外の情報は、いらないから描いていない。
- 実写がいちばん情報のコントロールがしにくい。コントロールしようと思ったら、舞台劇のようなセットの背景になる。お客に対して、ノイズを与えないときと、ノイズを与えてわからなくするときと使い分けている。
- TV版『エヴァ』では、最低限の情報量で表現したかった。16話でシンジと、もうひとりのシンジが会話するとき、最低限の情報量で映像を作った。アフレコのとき、マーカーでフィルムに線を引いて、赤い線のときはシンジ、青い線のときはレイに喋ってもらった。
- 描き込んでいるものが良いという風潮はあるが、それだけじゃない。
- アニメで描き込みが流行ったのは80年代。『宇宙戦艦ヤマト』が先駆け。オープニングを見ただけでしびれた。
ヤマトまでは、情報量を単純化する傾向があった。ヤマトから一気に線が増えた。 - 次に線が増えたのは、『マクロス』。『マクロス』では、喜んでディテールを描いていた。やはり、ディテールを増やしたのは板野さんだと思う。
宮さんは情報量の操作が上手い
- 動きの気持ち良さも、情報量に含まれる。
音の情報量も増えている。昔はモノラルだったが、ステレオになり、ドルビーになった。今は、5.1chだの、7.1chになって、後ろから音が出たりする。音もぐるぐる回るようになった。 - 宮さんの『風立ちぬ』では、わざと1.1chでやっている。うるさいから、真ん中から音が出れば良いんだ、と。画はひとつしかないのに、なぜ音が回るんだ、と。これは、理解できる。
- しかし、音の演出を考えると、7.1chくらいあっても良いかなと思う。特に、スペクタルものは。いきなり後ろから音が聞こえるとびっくりする。ここぞというときに使える。
- 宮さんは、コンポジットに力を入れない。フィルム自体で、デジタルのものを表現しようとしている。ぼくは、あれ以上に行きたい。せっかくデジタルだから、デジタルでしかできないことをやりたい。
- 『ポニョ』は子供向けだったので、情報量を減らしていた。その代り、車なんかは描き込んであった。そういう使い分けが、宮崎さんは上手い。
- ギガントの描き込みと、コナンやラナの影のない輪郭だけのキャラが、一緒にいるのはすごい。
- 宮さんが背景を描き込みだしたのは、『ルパン』の最終回から。あそこから、背景をリアルにするのが始まった。
映画監督は何もしなくていい職業
- 実写は、その場にあるものを切り取るのが良いとこ。情報量はフレームの引き画や、アップとか、カメラのフレームでコントロールしている。映像のいいところは、時間がコントロールできる。特にアニメは、時間のコントロールが得意。
- 全部自分でコントロールすると、考えたもの以外出てこない。自分の考えたもの以上のものが出るのが実写。
- 実写の場合は、情報量をコントロールするためには、風景の変化を待ったり作ったりする。
- 実写でも、CG任せになって良くない面がある。アニメっぽくなっている。押井さんが言っていたように「すべての映画はアニメになる」というやつ。たまには、押井さんも良いことを言う。
- CGを使った実写作品は、素材として映像を撮っている。完成形をイメージできているのは監督くらい。カメラマンもわかっていない。コンポジットですべて決まる。
- いまはCGの線を手描きに見せるソフトもある。しかし、まだ手描きの方が優れている部分は多い。
- CGと比べて、手描きはマンパワーだから、穴のを空ける率は高い。
- 宮さんもやっているけれど、アニメーターの技量には差があるので、参加するスタッフによって画作りを変える。止め画の切り返しでやることもある。役者によって、こういう映画にしようと決めるのと同じ。アニメーターが役者でありカメラマン。
- 映像の監督は、何もしなくていい唯一の職業。そのかわり、なんでもできる職業。カメラと監督と被写体さえあれば、映像作品は作れる。監督がいなくても、映像作品はできる。判断を煽られたとき、「OK」か「もう一回」か、ボキャブラリーは二つだけ。極論すれば、監督の仕事は、「責任をとる」だけ。
- 全体のマネージメントはプロデューサーがやってくれる。プロデューサーは、最低限お金の調達もある。監督のほうが仕事は少ない。
宮さんは絵コンテが最高傑作
- 上がってきた絵がひどい場合は、止め画にすることもある。『ナディア』の34話では、クオリティを上げるために、二週間で作れる絵コンテに描き直した。
- 監督のいちばんのストレスは妥協。100パーセント満足することはないこと。とにかく、及第点までもっていく作業。宮崎さんも、高畑さんも、それにつきるはず。
- 宮崎さんは、いつも絵コンテがいちばん面白い。宮崎さんが100パーセント描いているから。絵コンテから映画になるにつれて、他の人が介在して宮崎駿率が下がっていく。
- 絵コンテが読める人は、自分の好みやタイミングで、頭の中に映像を作ってしまう。宮さんの絵コンテを見たときに、最高傑作ができてしまう。完成した作品を観ると、こういう動きじゃない、となる。
- 宮さんの作品で、漫画『ナウシカ』が好きなのは、100パーセント宮さんで構成されているから。
- ぼくの場合は、絵コンテの完成度を低くしている。面白い要素だけ絵コンテに詰めて、方向性は描く人によって決まる。ぼくの絵コンテはハブになればいい。面白くする余地を残したい。
- 絵コンテに書き込みすぎると、コンテが面白くなりすぎる。コンテより面白くするには、コンテがある程度つまらいほうがいい。
- 絵コンテのいちばん大事なところは、スタッフがやる気を出すこと。これは面白い、と思わせる。そして、最低限の設計図となっている。
- 宮さんの絵コンテは、完成予想図。
情報とは、作り手の魂
- 「アニメ(ーター)見本市」は、同じ系列が一個もないのが面白い。これだけ、まだ多様性がある。見事にバラバラ。絵柄も世界観もストーリーも含めてバラバラ。同じ監督が、二度やってもバラバラなので面白い。
- ストップモーションアニメもある。『オチビサン』は、湯呑みとか器を作っている。落ち葉も、ひとつひとつ動かして撮っている。あのエネルギーは画面から伝わってくる。
- 情報量は、手作業ということもある。手作業の裏になにかある、と感じさせるのが良い。魂のようなものが画面にこもっているかどうか。
- 『かぐや姫の物語』は現場を知っていると凄いと思うけど、理解してない人は、手を抜いた絵に見えるかもしれない。普通のセルアニメより大変だが、見る人もそれぞれなので仕方がない。
- あの大変さが、どうやったら伝わるかと思う。しかし、高畑さんは伝えたくないと思う。なので、情報として大変さを切っていると思う。
- 見てる人と、経験でしか、ものごとは図れないので仕方がない。
- 作り手が、どこまで情報を伝えられるかコントロールできるのも、アニメのいいところ。わざと楽なように見せている。
- 『オチビサン』も、パッと見では、CGと思う人は多いはず。ひとつひとつ、湯呑みまで作ってるとは思わない。お弁当のなかも、ひとつひとつ動かしている。
- クリエイターは、ラーメン屋みたいなもの。お客は、醤油か豚骨かくらいは選んでくるけど、油が多いか少ないかはお客さん次第。どうしようもないこと。一方向メディアだから、それ以上お客さんのことを考えないですむのも良いところ。サービス業です。
- 作品作りは、鶴の恩返しみたいなもの。自分を削って織物を作ってるんで、気が付いたら何もない。そういう作り方しかできないんでしょうがない。
- 手を抜こうと思っても、ギリギリまでやってしまう。こういう性です。
- アニメの場合は魂が込めやすい。実写も、役者が魂を込めた芝居をすれば伝わる。それを定着させる技術と、伝える技術が映像にある。作り手の魂を定着化できる、そこが映像のいいところ。それを分解すると、“情報”というものになる。量というのは、トータルのイメージ。どれぐらいの魂を伝えるかということ。情報は、多い少ない、だけじゃない。重い軽い、がある。
川上量生 著書『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』を語る
- スタジオジブリで、鈴木さんの話し相手をする中で、いろいろ考えた。これまで、アニメは普通に観ていたが、作り方までは考えたことがなかった。
- アニメの現場では、「情報量」という言葉が普通に使われている。なぜ、アニメ業界で使われているのか、そのことに興味があった。
- 鈴木さんから、高畑さんや、宮崎さん、押井さん、庵野さんの話を聞いた。庵野さんには、この本に間違いがあると指摘された。斜め読みして、違うという箇所があった。しかし、否定するほどじゃない、とのこと。
- この本は、理系的にクリエイターの仕事を書いてる。
- アニメを紐解く入門書として、ちょうどいい本(庵野談)。
- この本を書いて思ったことは、クリエイターも完成形をわからず作っている。見てる人も、自分が見てるものをわかっていない。コンテンツとクリエイターは、わかっていないもの同士のコミュニケーションだと思った。
- 作品は、クリエイターではなく、見ている人のものと言われるが、それは原理的にそうだと思った。
- この本は、ギリギリまで書いていて、発売の一週間前に原稿が上がった。そこから印刷したんで、まったく宣伝ができなかった。
- ぼくは満足するものを書いた。だが、プロモーションされないまま出荷されて、出版社の人が可愛そうだった。
コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと コンテンツの情報量の仕組み、マンネリを避ける方法、「高そうに見せる」手法…ヒットコンテンツの正体とは。情報量とはなにか? 宮崎駿、高畑勲、庵野秀明など、トップクリエイターたちの発想法を読み解く。 |