映画『風立ちぬ』のヒロイン、里見菜穂子のモデルとなった、矢野綾子さんがどんな人なのか、ずっと気になっていて、調べていたんですけども、ほんとうに情報が少なくて、分からないことだらけでしたが、ようやく詳しい情報を見つけました。
秦郁彦氏の著書、『昭和史の秘話を追う』の五章「作家・堀辰雄の周辺」に、彼女の詳細が書かれていました。一部抜粋します。



『風立ちぬ』のヒロイン・矢野綾子の肖像

本籍 愛媛県今治市本町一四〇
明治四十四年(1911)九月十二日 矢野駒太郎、エキノの長女として出生
大正二年九月十二日 エキノの兄で矢野清太郎の長男、矢野透(1876-1957)の養女となる
大正十三年四月 付属小学校を経て広島女学校(現広島女学院)高等女学部入学
昭和四年三月 広島女学校卒業 四月 女子美術専門学校(現女子美術大学)へ進学
昭和七年(1932)三月 女子美術専門学校卒業
昭和九年九月 堀辰雄と婚約
昭和十年十二月六日 富士見高原療養所で死去(二十四歳)

矢野家は今治の素封家で、祖父の清太郎は県内の多額納税者でもあった。義父の透は陸軍の主計将校となり故郷を離れたので、妹のエキノに婿を取り家督を継がせたが、エキノは長男の昇(明治四十三年生まれ)と長女の綾子を残して結核で病没したので、実子のない透が兄妹を引きとった。

(略)

異人さんみたいな女の子

さて広島時代の矢野綾子については、松原勉(広島女学院大学教授)、石丸晶子(東京経済大学教授)の両氏が、何人かの高女同級生から聞きとった回想談で輪郭が知れる。
それによると、綾子は身長が一六二センチぐらいはある細身の体形、くりっと大きな眼、髪はナチュラルウエーブの美少女で、小学生の頃には「異人さんみたいな女の子」と噂されてたという。色白で腺病質の印象を与え、食は細かったが欠席はほとんどなく健康だったと思われる。
成績は上位で、とくに図画は抜群で美校卒業の前後に東光会へ加入、会の展覧会にしばしば出品した。アンドレ・ドラン風の重厚な油彩画の数点は、書簡とともに堀婦人からの寄贈で今も軽井沢の堀辰雄文学記念館に所蔵されている。
級友たちの目には矢野家における綾子は、義父母の溺愛もあって「箱入り娘」「女王様」に映じたらしい。

(略)

「女王様」然とした綾子が、女子美に進学して以後の精神的成熟ぶりを伝える情報は乏しく、手がかりは『美しい村』や『風立ちぬ』の節子として堀が作りだしたイメージしかない。
二人が最初に出会った印象を作家は、『美しい村』の夏の章で「窓ぎわに、一輪の向日葵が咲きでもしたかのように……黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せぎすな、一人の少女」が、「彼女の方をぼんやり見つめていた私」に「素直な、好奇心でいっぱいなような視線」を向けた、と書いた。
時は昭和八年夏、場所は軽井沢のつるや旅館、父の透に同校していた綾子と偶然に同宿して、やがて言葉を交わし、連れだって散歩したり、彼女の画作につきあうようになる。
二人の出会いの目撃者となった丸岡明は、次のように回想している。

例年よりおそく軽井沢に着くと、早速、待ち構えてでもいたようにして、薄いジャケツ姿の堀辰雄が十号余りの枠に張ったカンヴァスを肩にし、矢野綾子を案内してきて、ヴェランダにいる私の窓の外から声をかけた。
その楽しげな様子は、私を驚かした。もと野球場の草原へ、ここ数日、絵をかきに通っているような話だった……遠慮をして、私からは訪ねぬようにしていた。

(略)

以上、ここまでが抜粋の文章。
その後は、小説『風立ちぬ』に書かれていた二人の生活となる。

堀辰雄は昭和三年に肋膜炎を患い、昭和五年の秋に喀血。
その翌年四月から三ヶ月近く富士見高原療養所に入る。
退所後も体調は安定せず、その後二十年続く結核との闘病生活が始まる。

このとき、綾子にはすでに父の計らいで伊予銀行員の婚約者がいたが、綾子の強い希望により破棄する。
そして、昭和九年九月、堀辰雄と矢野綾子は婚約。
同じ病を患う堀と綾子は、矢野透の計らいによって富士見の療養所に一緒に入ることとなる。
この頃、すでに綾子は重症患者で、いつ死んでもおかしくない状態にあった。
辰雄はいつも自分の病室を空にして綾子に付添い、甲斐甲斐しく看護した。

当時の看護婦の証言で、「二人は白樺棟の二階の側室付き病室に入り、亡くなるまで一緒だった」と記憶されている。
きっと、小説『風立ちぬ』のように付ききりの生活をおくっていたのだと思う。
綾子の病状が悪化していくのとは逆に、堀辰雄のほうは回復に向かっていく。

友人には手紙で「もう僕はサナなんぞにいる必要はないが僕の女房(なんていうのはまだ早い)が相変わらずなので、とにかくこの冬はこちらで越すつもりだ」と送っている。
しかし、「今朝僕のフィアンセがひどい喀血をやっちゃった。開口している」と事態は急転。
この手紙を送った三日後、矢野綾子は永眠する。

富士見の入退院簿では、綾子の入院は昭和10年6月23日。
死亡による「退院は」12月6日。

その三年後に、堀辰雄は加藤多恵子と結婚を迎える。

ここから、もう一度抜粋文。

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矢野綾子の死

小説はあえて最後の日々に触れていないが、堀が結婚の直前に加藤多恵子に宛てた長文の手紙から関連の箇所を引用したい。

綾子は死んでゆく前に、僕のいる前でね、お父さんに僕にいい人を持たせて上げて下さいと言い残していったのです。
それがもう最後の言葉になりはしないかと思うほど、死を前にして苦しんでいましたが、それから突然「お父さんも本当に好い人だったし、辰っちゃんも本当に好い人だったし、私、本当に幸福だった」となんだかそんな苦しみの中から一所懸命になって言って、それからそのまま最後の死苦のなかに入っていきました。

綾子の臨終に立ち会った証言者はもう一人いる。小学校五年生だった妹の良子だが、それから二十二年後の『文藝』に寄稿したエッセイで、「姉が富士見高原の病院でなくなった晩、堀さんと病院のベランダに出て、凍りつく様な高原の空気の中で空にキラキラ光るお星様をながめながら其のお話をしていただいた」と振り返る。
そしてその日から、堀は良子には「唯一人の姉をなくした私にとっては、何物にも変えがたいやさしいお兄様」となった。

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本書では、ここから先も堀辰雄の人生を追っていますが、ここではこれでおしまい。

堀辰雄は、関東大震災で母を亡くし、師であった芥川龍之介を自殺で亡くし、恋人を病気で亡くしています。
正直、ずいぶん辛いものを背負いこんでるな、と思う。それでも、「いざ、生きめやも」と言える堀辰雄はすごいですね。
多恵子夫人は、身近な人を次々亡くした堀辰雄を、生涯尽くし続けたそうです。

生きねば。

昭和史の秘話を追う
著者:秦 郁彦
作家・堀辰雄の代表作「風立ちぬ」のヒロインとその周辺の人間模様……など、興味深い話題が、肩のこらない文体で説き明かされてゆく。

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