文藝春秋の「本の話WEB」にて、「文春ジブリ文庫」の刊行に関する、鈴木敏夫プロデューサーのインタビューが掲載されています。
なぜ、文春で文庫化されることになったのか。
その経緯が説明されています。
文春から出版の経緯
――これまでも映画になった作品は「フィルム・コミック」などとして他の出版社から発売されていましたが、文庫として、なぜ文春文庫を選ばれたのでしょうか。
鈴木:
文庫にしたいという話はこれまでもいろいろありました。ただ、宮崎駿作品にしても、高畑勲作品にしても、この作品を文庫にしたいという話はいただくんですが、そうすると作品ごとにばらばらになるんです。僕としてはどこかの出版社でジブリの作品を文庫として、まとめて出せないかと思ったんです。(略)
いろんな出版社を考えたんですが、文春が浮かんだのはいくつか理由があります。ひとつは映画を大事にしてくれる出版社はどこだろうかということです。文春は映画の本が充実していると思ったんですよ。それから、様々な出版社と付き合ってきましたが文春と今まではなかった。僕が20代の若い頃、文春の若い人とよく飲んだりして遊んでいたんですが、あの人たちはどうしているんだろうかと。20年くらい前から現在第一編集局長になっていらっしゃる木俣正剛さんと接点ができて、ジブリの機関誌「熱風」の連載がまとまった古澤利夫さんの『明日に向って撃て! ハリウッドが認めた! ぼくは日本一の洋画宣伝マン』が文春文庫から出版されたのもきっかけのひとつですね。ジブリ文庫の発案者はじつは木俣さんなんですよ(笑)。
(略)
「風の谷のナウシカ」の公開日をご存知ですか。1984年の3月11日なんです。偶然といっていいのか、こういうことはあるのですね。そして、その3.11の日のことです。今夏公開される「風立ちぬ」の絵コンテを宮崎が描いていました。ゼロ戦の設計者堀越二郎がモデルの二郎とヒロイン菜穂子が汽車の中で関東大震災の起きる最中、劇的な出会いをするのですが、そのシーンを書き終わったその日に東日本大震災が起きたんです。地球は天体としての活動をしていますから、こういう悲劇も起こるのですが、あまりの偶然に自分の描いたものに宮崎は悩んでしまいました。関東大震災は歴史の事実だから自分の絵に結び付けて考えることはない、自主規制するのはおかしいと私は言ったんです。彼は悩みながらもそのままやろうと決心しましたが。舞台となる時代は不景気、結核などの疾病が蔓延、不安定な政治、今と似てますよね。そして、戦争に突き進んでいきました。