日経ビジネスオンラインに、とり・みきさんの『風立ちぬ』の感想が上がっています。
個人的に、もやっとしていた部分を、言葉にしてくれていました。
「風立ちぬ」戦慄の1カット
青写真を確認した堀越二郎が自分の机に戻り、着席後身をかがめて床のカバンから計算尺を取り出し、椅子を前に引いて作業を始める一連の動作の1カット。
飛行シーンよりもモブシーンよりも、その作画と動画に戦慄した。
(略)
宮崎アニメの中では「ルパン三世/カリオストロの城」と同じくらい「無理なく」好きといえる。90年代以降のジブリアニメの中ではいちばんかも知れない。
いや、なんだかんだいっても、宮崎アニメは常にある一定の水準で、自分の「好き」ランクには入ってくる。しかし、毎回なにかしらのひっかかりがあったのも事実。それが今回はごく自然に自分の中にすっと進入してきたので、我ながら驚いている最中だ。
(略)
案の定、公開直後の今の時点では、ファン掲示板などの評判はかんばしくない。
世の中には作品に接する前に、勝手に俺様的脳内理想映画を造り上げ、それと違っていると文句をいう人が少なからずいるけれども、たいていはそういう感じだ。
(略)
「風立ちぬ」はエゴイスティックな映画だ。
それは、内容的な意味においても、映画の作り方もそうである。
すぐれた映画は、しばしばその内容が映画の手法や成り立ちをも支配する。(略)
凡百の映画は、その惨禍を、ついとってつけたような安っぽい社会意識で声高に叫び、阿鼻叫喚を描きがちだ。しかし、映画においては、それはスペクタクルなエンタテインメントになってしまう矛盾を抱えている。「なぜあの炎の下を描かない」との批判もあるだろうが、踏みとどまって描かないことのほうがどれだけ覚悟がいるか。
(略)
そもそも、震災に遭っても二郎は絶叫したりしないし、空襲の黒煙も遠くから淡々と眺めているだけだ。
戦争兵器を造っている彼は、もっと苦悩するべきではないのか?
いや、それすら欺瞞であることを、宮崎駿はわかっている。そして、その一見、残酷で無自覚にも見える傍観者の視線は、批判する側も評価する側も指摘しているように、孤高の職人・宮崎駿の視線でもある。
(略)
何事が起ころうとも、今目の前の仕事を片づけることだけが最優先順位になってしまう技術者や職人の悲しい「業」、あるいは愛する者の死や大災害すら傍観者の目で観察してしまう創作者の孤独な「業」を、肯定も否定も超えてありのままに描いているだけだ。主人公も自らをも突き放した、もとより観客の賛同を期待しない描写だ。
言い訳のようなセリフもない分、そこには圧倒的な虚無感、そして「わかってもらえなくてもかまわない」という諦念が漂っている。
(略)
宮崎監督の正直さ、そして庵野氏起用の説得力は、二郎が蒲団に寝ている菜穂子の手を片手で握りながら、片手で図面を引いている印象的なシーン(それにしてもこのシーンは、恋愛渦中にありながらも締切に追われ、会話が滞りがちになってやきもきした、あるいはやきもきさせた経験のある、すべての創作者や物づくり職人の琴線に響くのではないだろうか)の最後に、よく現れている。
菜穂子から手を放すのを拒否された二郎は、なんと肺を病んでいる愛妻の隣でタバコを吸ってしまうのだ。いつもの宮崎駿なら、主人公にけっしてこのような人間的で情けないふるまいはさせなかっただろう。これもまた戦慄すべき1シーンである。