6月15日に放送された、宮崎吾朗監督がゲスト出演したラジオ放送「ラジオ深夜便」を文字に起しました。
「母を語る」というテーマで放送され、元アニメーターであり、母親の宮崎朱美さんについての話が語られました。
インタビュアーは、宮崎吾朗監督作品『山賊の娘ローニャ』でナレーションを担当した遠藤ふき子さんです。
母は元アニメーター、原画マンをしていました。
遠藤:
『山賊の娘ローニャ』では、ほんとうにお世話になりました。
宮崎:
こちらこそ、ほんとうにありがとうございました。
遠藤さんの声で、「見てね」って言われると、「見ます」っていってる人がたくさんいました(笑)。
遠藤:
「見ろ」と言ったのは、アナウンサーの現役のときも言ったことがないので、新鮮な体験でした(笑)。
わたし現役のときに一度、それと「深夜便」のアンカーになってから、お父さまの宮崎駿監督にインタビューしたことがあるんですよ。
でも、まさか、息子さんの吾朗監督とお仕事ができるとは思わなかったので、今日はとても楽しみにしております。
宮崎吾朗監督というと、お父さんは宮崎駿監督といって、お父さんの話かと思うですが、今日はそうではなくて、お母さまの話ということで。お生まれになったのは、東京ですよね?
宮崎:
ぼくは東京生まれですね。
遠藤:
ご兄弟は、何人ですか?
宮崎:
ぼくと弟です。2人ですね。
遠藤:
お母さまは、お仕事してらしたんですか?
宮崎:
してました、はい。
東映動画という、アニメーションのスタジオですね。そこで、仕事してましたね。
遠藤:
お母さまも、アニメーションを描いて?
宮崎:
はい、そうです。アニメーターですね。原画マンという仕事をしてました。
遠藤:
ご両親の馴れ初めとか、聞いたことあります?
宮崎:
馴れ初めは、どっちの口からも聞いたことないですけど、もちろん同僚で現場が一緒だったっていうことと、組合運動なんてのも盛んな時期で、組合活動を通して知り合ったっていうことを、なんとなく聞いてます。
遠藤:
そうですか。その、お母さまが仕事をしてたっていうのは、宮崎吾朗監督がいくつぐらいのときまでしてたんですか?
宮崎:
ぼくが、小学校に入る前の年……前の前かな? 5歳ぐらいのときまでですね。
遠藤:
でも、どうしたって、病気になったりとかもしますよね。
宮崎:
そういうときは、実家に預けてたんです。実家が中野だったもんですから。
それから、ぼくが生まれたころは、土曜日も仕事があって、保育園が午前中で終わっちゃうもんですから、土曜日はお昼休みにぼくを抱えて、実家まで走っていって預けて、昼休み中にまた仕事に戻って、っていうことをやってたって聞きました。
遠藤:
けっこう大変だったんですね。
宮崎:
大変だと思いますね。
ただ、父も同じ職場だったので、そういう意味では職場が同じ時期はまだ、助け合ってという感じでできたようなんですけど。ぼくが小学校入る前に、父が別のスタジオに移ったんですね、東映動画を辞めて。そこから、父親のほうが、けっこう残業が多いっていうんですかね。忙しくなってしまって。
で、おふくろが全部やらなきゃいけないってことになって、これは無理だという話になって、退職したって聞いてます。
遠藤:
でも、お母さまとしては、好きなお仕事だったわけですよね?
宮崎:
と思いますね。だから、仕事辞めてもしばらくは、家で出来る仕事を貰って、やってた覚えはありますね、ぼくが小学生のころまで。
遠藤:
家でも、やっぱり描いたり?
宮崎:
そんなにはやってないですね、ぼくと弟がまだ小さかったもんですから。家でずっと仕事をやってるって姿は、あまり見てないですけど。ときどき、簡単な仕事っていうんですか、手伝いの仕事をしていたみたいです。
遠藤:
小さいときは、どんなお子さんだったんですか?
宮崎:
頼りない子どもだったと思いますね(笑)。わりと気も弱いし、内気だしっていう。
遠藤:
絵も描いたり?
宮崎:
そうですね、描くは描きましたけど、落書き程度っていう。
遠藤:
そういうときに、お母さまが見て、何か言うとかなかったんですか?
宮崎:
手とり足とりなにかっていうのは、無い人でしたね。そういう意味では、ほったらかしっていうんですかね。
遠藤:
学校行くようになっても、勉強とかそういうことをうるさく言うようなことはない?
宮崎:
ぼくが全然ダメだったもんですから。例えば、2年生で九九を習うじゃないですか。全然覚えられないもんですから。だから、厳しく範唱させられた覚えはありますね(笑)。そういうときぐらいですよね。
遠藤:
お母さまは、家庭的なことで、お料理とかはお好きだったんですか?
宮崎:
普通だったと思います。取り立ててってことは、なかったと思いますけど。
遠藤:
かたっぽが仕事を持っていて、お父さまは仕事がどんどん忙しくなっていくわけですね。
宮崎:
忙しくなってきましたね。だから、それこそ、午前中朝出ていって、帰ってくるのが午前様っていうのが、毎日続くっていう感じですから。
遠藤:
そうすると、お母さまは、お父さまのことが心配だったんじゃないですか?
宮崎:
あまり子どもに、そういうところは見せなかったですね。
遠藤:
今だと、ある程度子供が大きくなってくると、仕事に復帰とかありますけど、お母さまの場合はどうだったんですか?
宮崎:
やっぱり、アニメーションの現場が変わり過ぎてしまったっていうのが、あると思うんですよね。母がやってたころは、まだアニメーションのスタジオがたくさんあったわけじゃないし。東映動画っていうのは、当時ですけど労働組合があって、わりときちんと定時で帰るみたいなことがあったと思うんですよね。
業界全体がテレビシリーズをたくさん作るようになって、過酷な現場に変わっていっちゃってるんですよね。だから、子育てしながら、一方で会社に通うっていうのは、無理だったんじゃないですかね。
母親が、父親代わりも全部やっていました
遠藤:
昔していた仕事に対して、宮崎さんも大きくなるにしたがって、お母さまはポツリポツリと話されることはありますか?
宮崎:
「アニメーションなんて仕事は、薄給で過酷だから、将来やっちゃだめよ」なんてことを(笑)。まさに、そういうことになってたので、ぼくが小学校・中学校の時点で。
遠藤:
そのころ、お父さまが、どんどんいろんな仕事をされて、有名になってきて。お父さまの仕事に関しては、お母さまは「お父さん凄い」みたいなことは?
宮崎:
そういうことは、全然言わない人でしたね。父親の作品に関して云々っていうのは、ぼくは直接聞いたことないんですよ。
遠藤:
でも、見たりはしてるんですよね?
宮崎:
当然テレビでやってるのは、全部見てますし、映画であればきちんと全部見てると思うんですよね。
やっぱり、『トトロ』のような、子供向けのものを作ってほしい、っていうのはあるみたいですね。アニメーションが、大人向けのものになってしまうっていうのは、どうだろうって思ってる人なんで。
遠藤:
あぁ、お母さまが?
宮崎:
母ですね。だから、宮崎駿として作品を作るんであれば、子どもたちに向けて、何か作ってほしいってことは、最近も聞きますよね。
遠藤:
前に、宮崎駿監督にお話を伺ったときも、子どもたちが未来に希望を持てるような、そういうものを作りたいっておっしゃってましたけど、それはご両親ともにそういう、ご夫婦ともアニメーターでいらした宮崎家として、そういうものが?
宮崎:
これは、ぼくの感想ですけど。やっぱり、妻として宮崎駿を支えなきゃいけない、ってずっとやってきてますよね。
そうすると、やっぱり自分の夫の仕事は意味があるっていう、意義があるものだって思いたいと思うんですよね、母も子供たちのためにって気持ちがあって、アニメーションをやっていたと思うので、かつて。そうすると、変わらずに子供の将来に、何か意味のある形の作品を作ってほしいって気持ちは、変わらずあると思うんですよ。
遠藤:
お父さまは、凄い忙しいと、子どもたちと一緒にどこかに行ったりとか、そういった時間は取れないわけですよね。なにか、お父さまに言うことはなかったですか?
宮崎:
言ってる現場は見たことないですけどね(笑)。だから、母だけで、ぼくと弟をつれて、どこか旅行に行ったりとか、ハイキング行ったりっていうのは、よくありましたね。
遠藤:
子どもたちは、全部自分が引き受けてっていう感じで?
宮崎:
ある部分では、父親代わりも全部やってましたよね、母が。
遠藤:
お父さまは、何の心配もなく、仕事に没頭できたと?
宮崎:
と、思いますね。
遠藤:
幸せですねぇ(笑)。
宮崎:
昔のお父さんですね(笑)。
遠藤:
そのことに関して、お母さまは愚痴をこぼすことは全然ないですか?
宮崎:
少なくとも、子どもたちには全然なかったですね。
遠藤:
父親代わりっていうと、子どもたちが進路を決めるとか、そういうときもお父さんに相談するよりは、お母さんに相談してたんですか?
宮崎:
そうですね。父親に相談した覚えがないですね(笑)。
遠藤:
お母さまは、さっき「アニメーションは、過酷な現場だからするな」ってことをおっしゃったって。
宮崎:
そうですね、やっぱり作品を作るっていうのは、才能っていうんですかね。作ったもの、そのものが評価されて、その評価がある仕事なので、現場っていうのは辛いもの。評価されれば良いですけど、評価されなければ、良いもの作ったとしても、また仕事がないとかですね、過酷なことも当然あるわけで。そういう意味では、普通の仕事に就いてほしいって。
遠藤:
で、お子さんとしては、お母さんの言うとおりにしようって思ってたんですか?
宮崎:
やっぱり思いましたね。それは、父親のような才能はない、っていうふうに感じたからですよね。
遠藤:
でも、ご両親ともアニメーターで。だったら、やっぱり。
宮崎:
そんなに、ぼくは特段絵が上手いわけでもないですし。そっちの面の才能は、どうもなさそうだなって、思ってたんですよ。
遠藤:
じゃあ、高校のときなんかは、クラブ活動は何してたんですか?
宮崎:
クラブ活動は山岳部ですね。
遠藤:
山岳部ですか。アウトドア(笑)。
宮崎:
それは、母親の影響でもあるんですけど。やっぱり、山登りなんかもしてた人だったもんですから。それもあって、けっこうハイキングなんかにも連れていってもらっていて。で、山を登るのは好きだったっていうんですかね。
遠藤:
お父さまの作品には、自然の風景っていっぱい出てきますけども。ご両親は、若いころ一緒に山を登ったりとかしてたんですか?
宮崎:
してないと思いますね。父親はインドア派で、母親がアウトドア派っていう。母親は、ちゃんとスキーもしてたりとか。
遠藤:
お父さまは、全然インドア派ですか?
宮崎:
インドアですね。
遠藤:
じゃあ、まったく同じ趣味とかはない?
宮崎:
ないでしょうね、たぶん。趣味といっても、父親は仕事が趣味みたいなもんですから。
大学では児童文化研究会で、子供会や児童劇をやっていた。
遠藤:
宮崎吾朗監督は、高校を出たあと信州の大学にいらして、それも農学部の森林工学科。なんで、そういう科を選ばれたんですか?
宮崎:
進路決めるときに、当時何を考えた覚えてないんですけど、アニメーションみたいな道はダメだろうと思ってたので。
高校のあいだ山登ってたってこともあって、何か山関係の勉強にしようと思いまして。普通、林学科っていうのが、農学部だとあるんですけど。森林工学っていうのは、自然保護的なことだとか、造園とかいろんなカリキュラム含んだ学科だったものですから。信州に行けば、山が近いし、いつでも登れると思って、信州大学にしたんですよね。
遠藤:
お母さまには、全然相談しなかったんですか?
宮崎:
だいたい決めてからだと思いますね。
遠藤:
決めてから「受けるよ」と。どんな反応が?
宮崎:
「うん、わかった」って。
遠藤:
あっさりしてますね(笑)。
宮崎:
あまり、何学部が良いとか、どうのこうのと話した覚えはないですね。で、自分で勝手に決めたって感じでしたけど。
遠藤:
大学では、やっぱり山岳部かなんかやってたんですか?
宮崎:
大学では山岳部に入らずに、ときどき登ってるって感じで。大学では、サークルは児童文化研究会ってところで。
遠藤:
そこで、どんなことを?
宮崎:
子供会活動だとか、児童劇とかをやって、子供たちに見せるみたいな、そういうことですね。
遠藤:
なんでまた、そういうことを?
宮崎:
新入生歓迎の人形劇をやってたんですよね。それが、見て面白かったので、ついって感じですね。
遠藤:
なんとなく、ご両親がやっていたことと近いところに。
宮崎:
そういうところに、なんとなく未練があったんじゃないかなと思いますけど。
遠藤:
人形劇の文化研究会で、4年間ですか?
宮崎:
せっせとやってたのは、1年生から3年生くらいまでですかね。
遠藤:
信州大学っていうと、家を離れるわけで、そうすると山登りが好きなお母さまは、ときどき来たりしませんでした?
宮崎:
ほとんど来なかったですね。1回、入学したころに様子を見にきたくらいですかね。
遠藤:
お母さまは、お二人が自立しちゃうと。
宮崎:
まあ、いろいろ趣味を見つけて、楽しみの時間を作るようになっていったので。今でも、かなり忙しくしてますね。
遠藤:
どんなことを?
宮崎:
植物観察をして、それを絵に描くみたいなことをやってますね。山歩きなんかもしながら、見つけた草花を絵に描いていくみたいなことを、ここしばらくずっとやってますね。植物を見に、海外も含めて、あちこち行ってますね。
遠藤:
やっぱり、好きなものを見つけると、追求するという感じ?
宮崎:
そうですね。どうせ、お父さんは忙しくて行かないからって。最近だと、いつ行けなくなるか分からないから、行きたいとこは全部行くって、あちこち行ってますね(笑)。
鈴木敏夫から突然ジブリに誘われ入社
遠藤:
宮崎吾朗さんは、大学卒業したあとは、普通の会社に就職されたんですよね?
宮崎:
はい。造園設計の会社ですね。
遠藤:
そのあと、そこを辞めて、ジブリ美術館の設計に。それは、お父さまから言われたんですか?
宮崎:
それは、スタジオジブリの鈴木っていうプロデューサーから、ある日、とつぜん電話があってですね。「ジブリとして美術館を作りたいんで、手伝ってくれないか?」みたいな話だったんですね。
遠藤:
お父さまからでも、お母さまからでもなかったんですか。
宮崎:
ええ、ですね。
遠藤:
そのとき、どういうふうに思いましたか。
宮崎:
当時やっていた仕事の先行きみたいなものが、不安っていうんじゃないですけど、このままやっていてどうなんだろう、っていうのがあったものですから、経験も活かしつつ。子供たちを喜ばせる、楽しむための美術館を作りたい、って構想だったんですよ。だとすると、公園の延長みたいなものでもあるし。例えば、自分がやっていた、子供相手に何かやるって延長でもあるし、面白そうだなっていうことで引き受けたんですよね。
遠藤:
そのとき、会社を辞めたわけですよね。そのときも、お母さまには相談しなかった?
宮崎:
決めちゃってから、結果報告みたいな感じですね(笑)。だいたいそうですね、いつも。
遠藤:
でも、ちょっと驚かれたんじゃないですか?
宮崎:
そうですね、だと思いますね。
遠藤:
お父さまの反応は、どうだったんですか?
宮崎:
最初は、驚くっていうのか。どうしていいのか、わからなくなるみたいですね(笑)。自分の会社に、息子が来るっていうことですからね。
遠藤:
お父さまとしては、息子に連絡とかなかったんですか?
宮崎:
なかったと思うんですよね。初出社みたいな感じで行って、そのときに会社で初めて会うみたいな感じでしたね。
遠藤:
最初に顔を合わせたとき、どんな感じだったんですか?
宮崎:
困ったような顔してましたけど。いや、「おれは、公私混同しないからな、吾朗!」って言ったんですよ(笑)。
遠藤:
「吾朗」というふうに(笑)。
宮崎:
その時点で、してるんだろうなと思いつつ(笑)。
遠藤:
面白いお父さんですね(笑)。
ジブリの美術館では、何年か?
宮崎:
ぼくが入って、開館するまで、丸3年ですね。
遠藤:
なかなか年月かかったんですね。
宮崎:
いろんな面で、お金の問題だとか、場所の問題もありましたし。場所が、東京都の井の頭公園っていう、公園の中なんですよね。
やっぱり、きちんと設計をして、工事をしてってなると、最短で3年間って感じでしたね。
遠藤:
そういう面倒くさい交渉事があるところに、信頼する自分の子供が入ってくれてるっていうのは、お父さまにとっては心強かったんじゃないですか?
宮崎:
ぼくがいたお陰で、ブレーキになって良かったんじゃないですかね。
なかなか思うように進まないことって、あるわけですよね。こういう建物にしたいと思っても、法規制があったりとか。そうすると、彼からすると、せっかくこんな面白いものを考えたのに、なんでこんな法律があるんだとか、あるわけじゃないですか。そうすると、なんていうんですかね……、ぼくが相手だと、キレられない? 怒りをぐっと飲み込むという意味で、ワンクッションとして、ぼくの存在は抑止力になったんじゃないかなと思いますけど。
遠藤:
鈴木敏夫さんは、そのあたりも上手く……。
宮崎:
それもあったかなと思いますけど(笑)。
遠藤:
出来上がって、それこそ凄い人気ですよね。
宮崎:
そうですね。相変わらず、まだたくさん来ていただいているので。
遠藤:
出来上がったときに、お母さまとお父さまは、何かおっしゃいました?
宮崎:
なんだろう、何か言われたかな? 「ご苦労さん」くらい、おふくろから言われた気がしますけど(笑)。
遠藤:
特に、「よくやったわね」とか、「よかったわ」みたいなことは?
宮崎:
ないですね。だいたい、そういう意味では、褒めない人ですので。
遠藤:
ご両親とも?
宮崎:
はい。
遠藤:
わりとクールな親子関係というか。
宮崎:
そうですね。そうかもしれないですね。
自分が決めたことは、ちゃんとやりなさいってことですよね。口出しもしないけれど、自分がいいと思って決めたんだったら、ちゃんと最後までやりなさいっていう。きちんと、全力を尽くしなさい、っていうんですかね。
一個だけ、すごい覚えていることがあって、小学校の夏休みに入るときに、夏休みの目標みたいなものを決めなさいって、学校から言われて、何を書いたかは覚えてないんですけど、出来ることを書いたんですよね。それを、おふくろが見て、「出来ることは、目標ではない」って言ったんですよ。今出来ないこととか、がんばらないと出来ないことをやるのが、目標に向かって努力するということだから、出来ることを羅列しても、それは目標にはならないって言われたんですよ。厳しいなぁ、と思いましたけど(笑)。
遠藤:
理論的というか。
宮崎:
そうですね。努力しろっていう人でしたね。あまり、努力しない息子だったですけど。
『ゲド戦記』は露払いのつもりだった
遠藤:
ジブリのスタジオに、宮崎駿監督のインタビューで伺ったときに、屋上に植物がいっぱい植えてあって。夏なんかは、涼しくなって、節電にもなって良い、って話を伺って。へぇ、とビックリしたことがあるんですけど。お母さまは植物が好きだっておっしゃいましたけど、そういう意味では、お父さまは、いろんなものを上手く取り入れているって感じですよね。あれは、お母さまのアイディアではなかったんですか?
宮崎:
ではないですね。あの建物が出来たときに、屋上が眩しくて、とても暑かったんで、庭を作りたいと。そこの屋上は、ぼくが設計しましたけど。
宮崎駿って人は、特段植物が好きとか、そういう形で自然を愛好している人じゃないですよね。ある意味、観念的に見ているところもあるし、理想化して見てるってところもあるし。新しいもの好きってところもあると思いますね。
遠藤:
そのときに、下でコーヒーかなんかを自分で淹れられるなんていうので、宮崎監督がご自分で淹れてくれて、「どうぞ」なんて出してくださって、感激したんですけど、わりとそういうところが。
宮崎:
ありますね。サービス精神がある人ですよね。そういう意味では、映画っていうのは、喜んでもらって如何ほどのものか、って思ってるところはありますよね。
遠藤:
そういうふうにお目にかかったんで、もの凄く優しい人かと思って、わりとゆったりお話されるのかなと思ったら、インタビュー始まったら、もの凄い早口で。
宮崎:
もの凄いせっかちですね(笑)。
遠藤:
宮崎吾朗さんは、わりとゆったりお話してくださいますけど。すごく安心感が(笑)。
宮崎:
そうですか(笑)。
遠藤:
これは、お母さまが、どっちかというと、ゆったりと?
宮崎:
そうですね。ぺらぺら喋るひとではないんですね。きちんと考えてから、答えを言う人ですね。
遠藤:
吾朗監督は、設計の方をなさって、それから少しずつ少しずつ、アニメーション映画のほうに仕事を移行していきますよね。それは、どういうことだったんですか?
宮崎:
美術館が開館して、しばらく経つと運営的にも、だいぶ落ち着いてくるわけですよね。
ぼくが暇そうにしていたせいだと思うんですけど、映画の企画を若い人たちでやりたい、みないな話が、やっぱりプロデューサーの鈴木からあって。「暇なら、吾朗君もオブザーバーで参加しない?」みたいなところからだったんですよね。
遠藤:
それも、お父さまからではなかったんですか。
宮崎:
ではないです。いつも、鈴木敏夫です(笑)。
遠藤:
でも、鈴木さんっていう方は、そういう意味では、先見の明がおありというか。
宮崎:
人を使うのが上手いっていうんですかね。
遠藤:
最初のほうで「自分は絵が上手くない」とおっしゃってましたけど、ずっと描いてらしたわけですよね。
宮崎:
仕事上、設計で必要なものだとか。例えば、設計とかデザインって仕事でも、プレゼンテーションするためには、スケッチみたいなものを描かなきゃいけなかったりするわけで、そういう意味では手を動かすってことを、ずっとやってましたけどね。それが多少、役に立ったかなってことだと思います。
遠藤:
お父さんはどう思うかな、ってことは考えました?
宮崎:
あんまり、そのときも考えなかったんですよね。
遠藤:
宮崎駿さんって存在は、凄く大きいかなと思うんですけど、息子さんからしてみると、傍の人が考えるほど気にしないって感じですか?
宮崎:
これは、鈴木さんから言われてぼくがやっていることで、関係ないだろう、って思ってたわけですよ。映画の方に係わるとなったら、宮崎駿は大反対でしたね。それに関して言うと、おふくろも初めていい顔しなかったですね。「やっぱり、お父さんと同じ道に行ってしまったのか、息子よ」って感じでしたね。当然、心配もあるんだと思うんですけど。まったく経験のない人間がやるっていうのは、どういうことだ、って顔をしてましたね。
遠藤:
そういう顔をしても、何かいろいろ言ったりはしなかった?
宮崎:
母親は言わないですね。
遠藤:
そうですか。でも、そういう気持ちをひしひしと感じてしまう。
宮崎:
ひしひしと感じましたね。
遠藤:
失敗できないとか、感じてしまう?
宮崎:
そのときは、そういうことは考えなかったですね。失敗とか、成功とか。
これ一回だろうと思ったので、そのときは。スタジオジブリで、若い人で作品を作っていけるようにしないといけない、って話もどこかであって。それで、若い人で企画をやれないか、ってところで始まったものですから、ぼくみたいなものでも出来るとなれば、「じゃあ、おれでもできる」って人もいっぱい出てくるだろうと思ってたんですけど。
ぼくは、そういう意味での露払いみたいな感じになれば良くて、だから1本でも良いと思ってたんですよね。
厳しく育ててもらい感謝しています。
遠藤:
『ゲド戦記』を作って、そのあとに2作目に『コクリコ坂から』。これ、第35回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞したんですよね。凄い快挙ですよね。そのとき、お母さまは、「やっぱり、良かったわ」っておっしゃいませんでし?
宮崎:
「まあまあ、良かったけど、アニメーション的にはまだまだね」って言ってましたね(笑)。
遠藤:
厳しいですね(笑)。お父さまは、なんておっしゃってました?
宮崎:
それこそ、スタジオの現場では、けちょんけちょんに言われましたね。もちろん、技術的なこともありますし、作品を作ってく上での追求しなきゃいけないところの甘さみたいな。なぜ、そういう表現をするのか、っていうところの突き詰めが足りない、ってことを言ってるんだと思うんですけど。
遠藤:
そういうふうなことを言われたときに、息子さんとしては、どういうふうに受け止めます?
宮崎:
いやぁ、かなりヘコみますよね、やっぱりね。
やっぱり、やらなきゃ良かったんじゃないかな、って思うのは確かなんですけど(笑)。
一作目のときは、何もわからないで作ってるような有様ですからね。二本目やって、やっとどういうことなのかわかってきた、ってところがあったものですから。三本目やる機会があったら、そこの部分はきちんとリベンジせねばいかんなぁ、と思ってましたけどね。
遠藤:
で、今度は『山賊の娘ローニャ』で、新しい試みをいっぱいされたんですよね?
宮崎:
新しいといえば新しいですけど、コンピュータグラフィックスで作っていくということですね。
遠藤:
それって、お父さまはやらなかったことですよね。それは、父がやらなかったことを、ちょっとやってみようっていう?
宮崎:
どうですかねぇ……。それも、鈴木敏夫って人が、「吾朗君、次やるんだったらCGでやったほうが良いんじゃない」って言うのと、「三本目は、ジブリじゃない外でやってみたほうが良いんじゃない」っていうことを言われて。そういうふうに言うんだったら、それを前提に考えようってとこで始めた企画ですよね。
遠藤:
その『ローニャ』に関しては、お父さんはご覧になりました?
宮崎:
いや、見てんだか見てないんだか、わからないですけど、「評判は良いらしいじゃないか、吾朗」って言ってたんで。
遠藤:
お母さまはどうでした?
宮崎:
おふくろも、相変わらず感想言わないですからね。未だに、聞いてないですね、一回も。
遠藤:
最初のころは、「まだまだ」とおっしゃって。
宮崎:
ええ、だいぶましになったな、と思ってるんじゃないですか(笑)。
遠藤:
どうですか、少しずつ少しずつ新しいことをなさって、ご自分のなかでヘコむときもあるとおっしゃいましたけど、子供たちが喜ぶっていうか、そういうところでは。
宮崎:
そうですね、たぶん映画でもなんでも良いんですよね、ジブリ美術館のようなものでも。子供たちに喜んでもらうみたいなことが、できれば良いなってとこですよね。公園の仕事を最初の選んだのも、農学部の森林工学科なんてのを出て、なんらかの仕事となると林業職の仕事になるとか、施工会社とかになってくわけですけど、何か子供と接点のある仕事がしたいということもあって、公園の設計をするような仕事だったんですよね。それは、大学時代のサークルの経験が大きいんだと思うんですけど。そういう、子供たちに喜んでもらえることであれば、たぶん何でも良いんだと思うんですけど。
遠藤:
期せずして、ご両親の仕事を引き継ぐみたいなことを、お仕事としてはされてますよね。ご自分のこの先のお仕事に関して、どう思ってらっしゃいますか?
宮崎:
わからないですね。作品を作らせていただく機会があれば、やりたいというのもありますけど。声がかかるか、かけていただけるか、というところなので、なんとも先は見えないという感じですね。
遠藤:
なかなか褒めてくださらない、厳しいお母さま。一番感謝していることって、どういうことですか?
宮崎:
厳しくしてもらったことですかね。「自分でやりなさい」って人だったんですよね。例えば、オモチャが欲しい、なんだのって子どもが言っても、「自分で作れ」って言うわけですよ。そのための道具で必要なものは、与えてくれるんですけど。「自分で作りなさい」とかね、テレビばっか見たがると「自分で本を読め」って感じでしたし。それは、今の自分に繋がってると思うので、そこは感謝してますよね。あとね、家事全般を全部仕込まれたり(笑)。
遠藤:
家事全般って?
宮崎:
炊事、洗濯、料理。
遠藤:
そういうことも、ちゃんとやりなさいと?
宮崎:
ですね。男だからといって、やらなくて良いわけじゃないんだから、全部出来るようになりなさい、って人でしたね。
遠藤:
そうですか、お母さまに会ってみたくなりました(笑)。
今は植物をいろんなところに行ってスケッチしたり、仕事を離れたけども、自分の好きな道で趣味を活かしながら、過ごしてらっしゃる。
宮崎:
そうですね。とっても良い絵なんですよね。植物の絵って見ると、その人が植物のことを好きかどうかって、わかるんですよね。植物だけを描いてるんですけど、凄く優しい絵を描く人ですよね。
遠藤:
そうですか。今日はどうもありがとうございました。