スタジオジブリ作品の『ゲド戦記』。本作は、宮崎吾朗監督のアニメーションデビュー作となった映画ですけども、元々なぜ『ゲド戦記』が作られることになったのか、なぜ吾朗監督がアニメーションを作ることになったのか、そういった経緯をご紹介します。
宮崎駿が大すきな作品
まず、この『ゲド戦記』というのは、アメリカの作家アーシュラ・K・ルグウィンさんが書いた小説が原作です。
元々、この原作小説のファンだった宮崎駿監督は、まだスタジオジブリを設立する以前に、ル・グウィンさんサイドにアニメーション化の打診をしますが、そのときは許諾が下りませんでした。
当時のル・グゥインさんは、アニメーションというとディズニーのようなものという認識があったそうです。
また、宮崎駿監督もアニメーション演出家としては『未来少年コナン』と『ルパン三世 カリオストロの城』しか作っておらず、現在のような実績はありません。
その後、宮崎駿監督は漫画『風の谷のナウシカ』、絵物語『シュナの旅』を発表します。どちらの作品も、『ゲド戦記』の影響が感じられる作品となりました。
そして、皆さんご存知のとおり数々の作品を作っていった宮崎駿監督は、『千と千尋の神隠し』でアメリカのアカデミー賞長編アニメーション賞を受賞し、ベルリン国際映画祭では最高賞の金熊賞を受賞します。
本作で、宮崎作品は欧米での知名度が格段に上がりました。このときに、ル・グウィンさんも宮崎作品を鑑賞することとなります。
『となりのトトロ』に大きな感銘を受け、宮崎作品の思想と作風が、自身の『ゲド戦記』に通ずるものがあると感じたル・グウィンさんは、今度は自分からアニメーション化の打診を翻訳家の清水真砂子さんを通じて、ジブリ側に送ります。映像化するなら、宮崎駿監督しかいないと思ったそうです。
監督候補が辞退
しかし、当時の宮崎駿監督は『ハウルの動く城』に取り掛かっており、次に『ゲド戦記』を作るほどの余裕はありません。
さらに言ってしまえば、宮崎駿監督は『風の谷のナウシカ』のときから、今日に至るまで、『ゲド戦記』で受けた影響を作品の中で反映させてきました。
特に、『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』といった宮崎監督の代表作は、『ゲド戦記』の影響が強く出ています。
『ゲド戦記』の映画化ではないにしろ、これまでの作品で宮崎監督はいろいろ表現してきたことを意味します。
宮崎監督は「20年前に言ってほしかった」と思ったそうで、「今さら『ゲド戦記』を新たな意欲を持って作ることは出来ない」
と断ります。
ただ、ここで話は終わらず、映像化の可能性が出てきていることを受けて、ジブリ内では映画化に向けての研究会が発足します。
その当時、まだジブリ美術館の館長だった宮崎吾朗さんは、アドバイザーという立場で研究会に参加していました。
監督候補だった人は他にいて、演出家志望としてジブリに入社したアニメーターの方でした。
吾朗さんは、このときは監督をやるつもりは毛頭なく、宮崎駿監督からの「弾よけ」的な役割が出来ればと思っていたそうです。
ところが、この監督候補だった方が辞退したことから、『ゲド戦記』の企画自体が宙に浮きかけます。
そこで、困った鈴木敏夫プロデューサーが、吾朗さんに監督の打診をしました。
さすがに吾朗さんも最初は躊躇したそうですが、結果的には引き受けることとなります。
このときのことを吾朗監督は、『ゲド戦記』という企画だったから引き受けたと語っています。
宮崎駿を黙らせた一枚の絵
監督は決まったものの、ここからが大変です。
「監督は吾朗くんでいこうと思います」
鈴木さんは、宮崎駿監督にそう切り出すと、猛反対されたそうです。
「できるわけないだろう」
「鈴木さんはどうかしている」
「あいつは絵が下手だ」
怒る宮崎監督を説得するために、鈴木さんは吾朗さんに一枚の絵を描いてもらうことにしました。
そのときに描いたのが、映画のポスターにもなった、アレンと竜が対峙しているものです。
宮崎監督は、大きいものと小さいものが並んでいるという絵が好きで、この手の絵を描くときは真横か、正面から見上げる角度で描くことが多い。だったら、宮崎監督が絶対に描かない構図、斜めから見た角度で描けば、驚いて心が動くのではないか。そう考えたそうです。
実際に、この絵を見た宮崎監督は、意表を突かれたのか、何も言い返しはしなかったそうです。
そして、不満はあるものの、最終的に吾朗さんが監督を務めることを認めることとなったのです。
原作者ル・グウィンからの許諾
こうして、吾朗監督のデビュー作が『ゲド戦記』に決まったものの、原作者ル・グウィンさんからのオファーは、宮崎駿監督に作ってもらいたいというものでした。
こうなってくると、ル・グウィンさんのほうからすると事情が違います。
制作が始まるまで、ル・グウィンさんには吾朗監督が作ることは知らされていませんでした。
ほどなくして、正式に許可を得るために、鈴木敏夫さんと宮崎駿監督はアメリカにあるル・グウィンさんの自宅まで訪ねることになります。
宮崎駿監督は「本はいつも枕元に置いてあって、片時も離したことがありません。映画を作っていて悩んだとき、迷ったとき、何度も読み返してきました。自分の作ってきた作品は、『ナウシカ』から『ハウル』に至るまで、すべて『ゲド戦記』の影響を受けています」と最大の賛辞をおくりました。
そして、宮崎監督は「自分はもうこの作品をやるには歳をとりすぎた」と切り出し、そんなときに自分の息子とそのスタッフが作りたいと言い出したことを伝えます。
しかし、ル・グウィンさんも慎重で、その場では答えを出しませんでした。
その日は、夕食を一緒に食べることになっており、「大事な話はそこでしませんか?」と、ル・グウィンさんの息子のテオさんが提案します。
そして迎えたその日の夜。会食は、たわいもない雑談から始まったそうですが、途中でテオさんがル・グウィンさんに「大切な話があるでしょう」と促します。すると彼女は、少しの沈黙のあと、宮崎駿監督の手をとって、「あなたの息子、吾朗さんにすべてを預けます」と言いました。その言葉を聞いた宮崎監督は、感激のあまり涙を流していたそうです。
こうして、宮崎吾朗監督によって『ゲド戦記』が作られることになったのです。