昨日、アメリカで行われたアカデミー名誉賞の受賞記者会見の模様を文字に起しました。賞に対する関心のなさがよく伝わってくる、宮崎駿監督らしい会見となりました。アカデミー賞の受賞よりも、モーリン・オハラさんに会えたことの驚きと喜びが大きかったようです。オスカー像の扱いには、爽快感がありました。
アカデミー名誉賞 受賞スピーチ
宮崎:
私の家内が、「おまえは幸運だ」とよく言います。ひとつは、紙と鉛筆とフィルムの、最後の時代50年に、私が付き合えたことだと思います。それから、私の50年間に、私たちの国は一度も戦争をしませんでした。戦争で儲けたりはしましたけれど、でも戦争をしなかった。そのお陰が、ぼくらの仕事にとっては、とても力になったと思います。でも、最大の幸運は、今日でした。モーリン・オハラさんに会えたんです。これは凄いことです。こんなに幸運はありません。美しいですね。ほんとうに良かった。どうも、ありがとうございました。
アカデミー名誉賞の受賞は、ジョン・ラセターの陰謀
――名誉賞受賞の感想をお願いいたします。
宮崎:
いちばん驚いたのは、モーリン・オハラさんが、やっぱり受賞したんですが、94歳です。すごい。だいたい、ぼくが生きてる間に……生きてる間というよりも、モーリン・オハラさんが生きてるなんて夢にも思わなかったし、自分が会えるなんて夢にも思わなかったです。
これが、今日いちばんの、生きてると、とんでもないことが起きるんだっていう感想です。
――オスカー像を実際に手に取られて、持った感じは如何でしたか?
宮崎:
重いんですよ。ちょっと持ってみてください。どんだけ重いか分かるから、ほんとに。
――いやいや……。
宮崎:
いいですよ。ちょっと、ほんとに持ってみて。これ、しかも、箱をくれないんですよ。
――持たしていただいて、よろしいんですか?
宮崎:
ええ、重いですよ、ほんとに。
(オスカー像を手渡す)
――けっこう、ずっしり……。
宮崎:
モーリン・オハラさんが、車椅子で出てきたんですけど、これを手に取ったら「金か銀で出来てればいいのに」って言いました(笑)。
――功績をアカデミー賞から認められて、受賞されたことについては如何でしょうか?
宮崎:
う~ん……、ジョン・ラセターさんの陰謀ではないかって、そうとう運動したに違いないとか思ってるんですけど。分かりません。
――これまで監督は、こういう類の受賞というものを、数々受賞されていますけど、なかなか授賞式に出席されるという選択肢を取られてこなかった。今回は、何が違うんでしょうか?
宮崎:
ジョン・ラセターの脅迫です。怖いんですよ。これは、行くしかない、という感じだったんです。それで、陰謀説とぼくは思ってるんですけど(笑)。いや、ほんとに友情が厚いんです。もう、なんで、こんなに友情が厚いんだろうっていう男ですね。だから、もう仕方がないって。これ(タキシード)、家内と二人でデパートに行って買ってきたんですけど、生涯一回しか着ないもんだけど、「まあ、そういうこともあるだろう」ということで、初めて蝶ネクタイと……これホックで止めれば良いやつなんですけど、似合うも似合わないもないですね。
自分はまだ小僧。リタイアとか声に出さず、やれることをやる
――宮崎監督にとって、アカデミー賞とはどういったものでしょうか?
宮崎:
ほんとうのこと言って良いなら、言いますけど、関係ないんです。そういう志は持って……つまり、アカデミー賞っていうのはね、モーリン・オハラとかですね、そういう人たちのものであって、アニメーションをやろうと思ったときに、アカデミー賞に関わりのあることを、やることになるだろうと思ってもいないです。それは、目標でもないしね、視界に入ってない出来事でしたから。まあ、なにが驚くって、ほんとに、モーリン・オハラさんが生きてるのには……。会うなんて、ぼくは、ほんっとに思ったことなかったから。それで、車椅子でおられたんですけど、始まるまえに挨拶に伺ったら、向うはぼくのことを言ったって何も分かるはずないですからね。お孫さんが世話をされてて、その方が声をかけてくださったんですけど、振り向いたときに、シルエットが昔のまんまなんですよ。これは、ハッと思いました。
――会話とか、なにか話したりされたのでしたら……。
宮崎:
いや、そんなにやり取りとかはないんですけど、「『わが谷は緑なりき』の貴女が素敵だった」と、ぼくは言いました。そしたら、「ジョン・フォードは、ほんとうにおっかない監督だった」って仰ってましたけど。それ以上、とやかく言う時間はないですから。凄いですね、生きてると色んなことあるんだと、ほんとに思いました。
――監督の今後のアニメとの関わりというのは、どうなるのでしょうか?
宮崎:
大きなものは無理ですけど、小さいものでチャンスがあるときは、やっていこうと思っています。ただ、無理してもダメなんで、もう。だから、出来る範囲でやっていこうと思ってます。ぼくらは、ジブリの美術館というものがあるもんですから、お金に関係なしに、つまり、どれだけ回収できるかということなしに、公開することができるんですよ。そうすると、今、9本できてるんですけど、1本あると、1年間に1回以上は上映することになるわけですね。そのときに来てくださったお客さんは、みんな観て行ってくれますから。けっこう、お客さんが多い映画になるんですよね。それで、売れなくて良いわけですから、こんなに良いチャンスはないんですよね。ジブリの美術館の短編は、作れる限り作っていこうと思っています。
――それは、監督は現役であると考えていらっしゃるんでしょうか?
宮崎:
現役じゃないでしょう? 現役っていうのは、もう少し仕事やると思うんですけどね(笑)。あんまり、現役で自分を叱咤激励しようとか、やったところで無駄だから、出来る範囲でやっていこう、ってことで良いと思いますけどね。
今日、94歳とか、87歳とか、そんな人たちばっかりに出会ったもんですから、ほんとに小僧だなと思ってね。ぼくは、73歳なんですけど。恐れ入りましたっていう、そういう感じで、もうリタイアとか声出さないで、やれることはやってこうと思いました。
――ジブリ美術館の展示を作られて、お子さんへの愛を感じたんですが、短編でお子さんへの贈り物のようなものは降りてきてますか?
宮崎:
展示は、一年で模様替えになるんですよ。そうすると、もう次のことを考えないといけないんですよね。これも、けっこう手間が掛かって大変ですね。この次のやつを、今話してるやつが決まるとしたら、あんまりお子様へのプレゼントじゃないですね。それは、まだ発表できないです。だって、やるかやらないか決まってないんだもん。
――今、インターネットで生放送してまして、1万7千人くらいの人が見ているんですけど、多くの方がコメントで「短編に期待してます」と書かれてるんですけど。
宮崎:
ありがとうございます。期待されないほうが楽なんですけどね。
――創作されるモチベーションというか、意欲は、どのように保たれているんでしょうか?
宮崎:
モチベーションは、毎回衰えるんです。それで、ある日突然、「こんなことではいかん」と思って、力を取り戻そうと思うんですけど。そういうことの繰り返しです、ほんとに。ぼくの年になったらそうだと思います。そうじゃない人もいると思うんですけど。でも、まあ、あんまり年を取って、「仕事、仕事」って言ってるのも、みっともないし。あんまり、ポーっとしてて、周りに迷惑かけてもいけないから、ほどほどのところで。
最初に、自分の仕事場に入って、途端に机にかじりつくっていうより、そのまま寝てしまうってことのほうが多いから。まあ、起きますけどね。疲れが出るリズムの、テンポが緩やかなんですよ。若いときは半年くらいで、疲労がピークを越えて、回復に向かうんですけど。それが、出てくるのも遅くなる、治るのも遅くなるっていうふうに、どんどん後ろにずれてきて。年を取ると、山登りして脚が痛くなるっていうのは、二日くらい痛くならないんですよね。なんともないな、と思った途端に階段登れなくなったりするんです。それと同じような感じを、いま味わってますね。
これは、前の作品のせいなのか、今までの悪業の報いなのか、よく分かりませんが。ぼくは、初めてのことだから、やってみないと分かりません。ただ、美術館の展示については、噛める限り噛んでいきたいとは思ってますけど。
賞は貰えないと頭にくるし、貰っても幸せにならない
――アカデミー賞に出られて、如何でしたでしょうか?
宮崎:
鈴木プロデューサーは、とても面白がってましたね。ぼくは、横にラセターが座ってて、しょっちゅう握手したり、ハグしたり、いろんなことされて、冗談じゃないですよね(笑)。
だいたい、あんまり得意じゃないんです、そういうものが。でも、出来るだけ、にこやかにやってきたつもりです。氷の微笑みみたいに、こう。
賞ってね、貰えないと頭にきますよ。貰って幸せになるかっていうと、ならないんですよ。なんにも関係ないんです、実は。それで自分の仕事が、突然良くなるとか、そういうことないでしょう? ないんですよ。もう、とっくに終わっちゃった仕事ですからね。その結果を、いちばんよく知ってるのは自分です。あそこがダメだったとか、あそこは失敗したとか、誰も気が付かないけど、あそこは傷だとかね。そういうものを山ほど抱えて、映画って終わるんですよ。だから、お客さんが喜んでくれたって言っても、その客は、ほんとうのことを分かってない客だろうとかね。だいたい、そのぐらいの邪推をする類の人間なんです、ぼくは。だから、自分で映画を終わらせなきゃいけない。賞を貰えば嬉しいだろうと思うけど、賞によって決着はつかないんです。むしろ、それなりに翻弄されますから、ドキドキするだけ不愉快ですよね。不愉快って、変な言い方ですけど。ぼく、(アカデミー賞)審査員には絶対ならないつもりなんです。順番は絶対つけない。答になってないんですかね?
――アカデミー賞に出られて、友情の厚いラセターさんとか、ずっと一緒にやってこられた、鈴木さんとか奥田さんとかに祝福されて、そういう時間は楽しく過ごされたんじゃないかなと。
宮崎:
いや、ご飯食べる時間がないんですよ。いろんな人が来て、おれはなんとかで、まえジブリに行ったことがあるって。覚えてないですよ。それで、しょうがないから握手して、「どうも、ありがとう」とか言って、そんなことばっかやってなきゃいけなくて。
鈴木:
ハリー・べラフォンテは良かったですよね。
宮崎:
あ、ハリー・べラフォンテさんも受賞されたんです。この人は、88歳? 大演説してましたね、人種差別と戦い続けてきた人ですから。で、シドニー・ポワチエが87歳。80代ですからね、こっちは小僧ですよ。それで、なんせ、モーリン・オハラさんが94歳でいるんですからね。どうして良いか分からないですよね。隅っこのほうで、小さくなってるしかないと。
奥田:
いちばん、カクシャクとしてましたよ。
鈴木:
今日、いちばん若い受賞者なんですよ。
――今日、4名の受賞者の平均年齢が84歳だったので。
宮崎:
モーリン・オハラさんが稼いでるんです(笑)。
もちろん年齢がもたらすものを充分、モーリン・オハラさんも抱えていたけど、お孫さんがついていたけど、お子さんたちはお亡くなりになってるのかどうか分からないけど、そういう歳ですよね。でも、素敵でしたね。ぼくは、堂々と、こっそり言ったんです、「とても綺麗です」って。ほんとに、そう思ったから。
――レッドカーペットに宮崎さんがいらっしゃったのは、モーリン・オハラさんに会うためなんですよって、お話したら、「私も会うの楽しみにしてるわ」って仰ってました。
宮崎:
それは、もう、そういうふうに言うしか……。だって、大女優をずっと続けてきた人だもんね。そのくらいの裁きはできますよ。だって、宮崎とか、わけの分かんないやつ、知ってるはずないじゃないですか。
あのね、ちょっと会場で映像流しても、モノクロ時代のスターって、ほんとうにスターなんですよ。映画は、モノクロ時代は、そういう意味を持っていたんですね。それだけで、もう、ヤバイですよね。凄いって。
短編は人間が喋らない映画にしたい。もう、年寄りは何やっても良い
――今日お会いになった80代の方々を見て、もう一回長編も作りたいという、パッションみたいなものは……。
宮崎:
そういう、上手な結論にはいきません。話をまとめるには良いでしょうけど。その部分は変わらないです。それは、自分に何が出来るのかというのと、何ならやるに値するかということと、これなら面白そうだっていうことが一致しないといけない。それから、いろいろ、制作現場を作っていくときの条件がありますから。お金の条件だけじゃないんです。人材の条件ですね。そういうことを満たすことが出来るかどうかとか。そういうことを考えながら、やらなければいけませんから。美術館の短編というのは、10分ですけども、世界を創るという意味では、一本分のエネルギーがいるんです。ただ、人間が喋らない映画にしたいって思ってますから、台詞がない映画にね。そういう点では楽ですけど。もう、年寄りは何やっても良いんですよ。無声映画だってやって良いと、ぼくは思ってるんですけど。
でもまあ、今モノクロでやろうとすると、かえって大変だからね、それはやりませんけど。自分がやりたいこと、同時にスタッフにとっても、一度はやっても意味があるだろうっていう、そういう仕事でなければいけないと思ってるんです。なんとなく、ワーっとやって、手伝ったら終わっちゃった、っていうんじゃない、そういう仕事のやり方や、現場が作れないかなとは夢みますね。そうじゃないと、毎日行きたくなくなるもんね。だから、そういうことは思いますけど。なんか、時間が掛かりそうでヤバイですね。
昔、ぼくは、もの凄く手が早かったんですよ。だんだん、だんだん、遅くなるんです。一日に10何カットの原画をチェックしなきゃいけないっていうノルマを自分で組んで、14カットだったときがあるんですけど、それが『トトロ』のときに6カットになったんです。一日6カットやれば良いんだって。なんて楽なスケジュールって思ったのに、もう全然6カットまでいかないんですよね。中身が変わってくるのと、自分が歳を取ってくるので、どんどん遅くなるんです。
それで、ついこないだまでやってた、この前の最後の作品(『風立ちぬ』)ですけど、あれなんか一日3カットやってれば良いんですけど、3カットが出来ないんです。
企業としてのディズニーに興味はないが、オールド・ナインズに敬意を感じる
――今回の受賞で、黒澤明監督以来の日本人で二人目ということですけど、これについては如何でしょうか?
宮崎:
いや、ぼくは黒澤さんも貰いたくなかったんじゃないかなって。今までのことを功労しますっていう賞なんて、貰ったってしょうがないですよ。もっと、生々しいものだと思うんですよ、映画を作るって。「作った! 観てみろー!」って、ドドーっと賞が来たら良いけど、「ずいぶん長いことやってましたね」っていう、ご苦労さん賞みたいなね。そういうのでしょ? 重いですけど、もっと軽いので作れば良いのにと思いますけど。さっきも言いましたように、賞で何も変わんないんですよ。
貰うときは「ありがとうございます」って受け取るけど。それから、ラセターたちの友情は、ほんとうに感動的な、ほんとうに忠実な友っていうのは、こういう人たちを言うんだなって思いますけどね。そういう人に出会えたっていうのが、幸いだと思うんですけど。もう、忠実すぎて、「これが最後だから、おれの家に来い、おれの汽車に乗せる、ヨセミテに連れていく」って、これはちょっと辛いなと思ってるんですけど、あそこら辺(鈴木さん、奥田さん)も、一緒に行くはめになるから。……辛いなって言えないですよ、もう。「これが最後だ」って、最後が続くんじゃないかなって……。
で、ヨセミテは寒いぞって言われたから、なんとなく防寒具とかいろんなもの持ってきたのに、暑いでしょう、ここ。エアコン入ってるじゃないですか。着るものがなくてねぇ。下着は冬物を持ってきてしまって、今ぼくは暑いんです。なんだか、わけわかんないですね(笑)。
――ラセターさんが、今日の授賞式の中で、ウォルト・ディズニーに次ぐ人材であると評価されましたが、それについては如何ですか?
宮崎:
まあ、贔屓の引き倒しだと思っといたほうが良いと思いますよ。ぼくは、ウォルト・ディズニーという人は、プロデューサーとして優れていると……途中からプロデューサーとして優れていると。初めはアニメーターでしたよね。それで、昨日、ディズニーランドの中にある、なんてクラブでしたっけ?
奥田:
カーセイ・サークル。
宮崎:
というクラブがあって。それは、仕事が終わった後、アニメーターたちが寄れるようなクラブを作りたいと思ってただけらしいんですけど。そのクラブをラセターたちが考えて作って、そこにほんとうに古い写真を引き延ばして、飾ってあるんですよ。それ見ると、ほんとに若いアニメーターたちが、その、ウォルト・ディズニーも若くて、それで打ち合わせしてるんだけど、誰もタバコ吸ってないから、おかしいなと思ったら、持ってるのを消してあるんですね、修正で。そんなことあり得ないんですよ。絶対こうやって、吸ってたはずなんで。面白かったですね。でも、やっぱりそこにあるのは、これから時代を切り開くというよりも、自分たちの時代を作ろうと思ってる、作れるんじゃないかと思ってる人間たちが集まってるものが、その写真にありますよ。それで、みんなネクタイ絞めてやってる。きちんとして、やってるんですよ。夏はどうしたんだろうと思うんだけど。夏の写真じゃないと思いますけどね。そういう時代が確実にあって、そのときにディズニーや、オールド・ナインズと呼ばれたアニメーターたちが、ほんとうに自分たちは新しい、意味のあることをやってると思って仕事をしたんですね。それに対しては、ぼくはほんとうに敬意を感じます。その、企業として、ディズニー・プロダクションが、どうやって生き残っていくかってことについては、ほとんどぼくは関心がありませんけど。あの瞬間の写真を見ると、ああこれは、良い連中だなと、ほんとうに思いますね。そういう意味では、ぼくらも共通する瞬間を何度か、実際にもってますから。それから、推測するしかありません。
70年近く戦争のない時代が続き、幸せだった
――今のお気持ちとしては、式典が終わって、ほっとされてるという感じですか?
宮崎:
ほっとできないんですよね。明日9時に朝食会をやって、それからどこかに飛ばされて。だから、なるべく早く寝なきゃいけないという。ほっとはしてませんよ、けっこう感動するとこでは感動してるんですよ。モーリン・オハラさんに会ったんですよ? 手まで握ってきたんですから、周りが気が付かないうちに。そういう興奮は、ほんとうに残ってます。それは、ハリー・ベラフォンテも素敵だったけど、やっぱりあの美女が振り向いたときのシルエットは、ほんとに昔のモーリン・オハラだったんです。ぼくは、そのときに息を飲みましたからね。あとはシワがあろうが、シミがあろうが関係ない。今の自分にもいっぱいあるから、そんなのはどうでも良いんですよ。やっぱり、大した時代を生きてきた人だって、ぼくは思います。
――監督としては、今回のアカデミー名誉賞というものに対しては、あまり価値や意味は見いだせれないですか?
宮崎:
あらゆる賞に対して、ぼくはそうなんで。なにも、これ(アカデミー名誉賞)だからペケとかね、そう思ってません。だから、さっきも言いましたように、賞っていうのは相手にされないと悔しいし、貰って幸せかっていうと、それも幸せじゃないんですよ。だから、無ければいちばん良いものなんです。分かりません?
――ここにおられる方は、式典で宮崎さんが何をおっしゃっていたか分からないので、コメントを紹介したいと思いますけど、間違っていたら言ってください。3点、まず1番目、「奥さんに、あなたは運が良いと言われた。鉛筆と、紙と、フィルムの50年間を過ごせたこと、それが通用する最後の時代に立ち会えたことが幸せだった。」
宮崎:
「それが通用する」じゃないです。「フィルムの最後の時代」です。フィルム無くなりましたからね。
――それから2番目、「そして、その50年間のあいだ、日本では戦争が一度もなかったことも幸せだった。」
宮崎:
違います、飛ばしてる。「戦争で儲けたりはしたけど、とにかく戦争はしなかった」って。実はプロデューサーが、来るとき飛行機の中でしたもんですからね、ちょっと付け足さなきゃいけないと思ったんです。正確に言うと、70年近くしてないんですね。なぜ、そういうことを言うかといいますと、ぼくらの先輩よりも、もうちょっと上の戦前にアニメーションをやりたいと思った人たちは、ほんとに戦争によって、ど突き回されてるんです。それで、戦時中に企画が立てられて、『桃太郎の海鷲』っていう映画なんかも力作なんですけど、出来たときには(戦争で)負けに瀕してるとき出来ているわけです。それで、映画を公開して、すぐに戦争が終わってしまって、そのままお蔵になってしまうっていうね。それで、そのあと、仕事がなくなるっていう。そういう目にあって、その『桃太郎の海鷲』を作った人なんかは、結局本は出なかったですけど、アニメーションのゲラを見せてもらったことがありますが、ほんとうに分かってる。こんなに、どうして分かったんだろうっていうことを。アニメーターの勘っていうのは、修業じゃなくて、ものの観察の中から生まれてくるんで、ほんとうにたちまちのうちに理解する人は、理解するんですね。それを見て、この人たちは、結局戦争終わった後、アニメーションを続けることができなかった。しばらくしてから、復活しますけど、ほんとに巷に仕事がなかったんです。
それで、ぼくにも影響を与えてくださった大先輩が、アニメーションやるって言ったら、馬鹿かって周りに言われながらやってきた人間です。大塚康生って人が、ぼくの直接のお師匠さんなんですけど。10歳年上ですが、彼は厚生省の役人を27歳までやって、麻薬Gメンで、それでもアニメーションやりたくて、東映動画って会社に入ったんですよね。その結果、給料が3分の1になってしまったんです。彼は、やっぱり何年間か失ってるんです。それは、努力もし、勉強もしてたかもしれないけども、ハタチから初めていたら、その7年間ってもの凄く実りの多い期間だったはずなんです。その後も、いろいろな努力をして、成果を残してくれた人ですけど。『ルパン三世』を最初にやった人ですよね。だから、戦争の影っていうのは、戦時中に大人でなくても、いっぱいいろんなところに影を残してるんです。それで、ぼくは、ちょうど『鉄腕アトム』が始まった1963年に、アニメーターになったんです。『アトム』をやったんじゃありませんが。1964年にオリンピックです。高度経済成長が始まってるころです。その後ね、いろいろあっても、とにかくアニメーションの仕事が続けてこれたっていうのは、やっぱり日本が70年近く戦争をしなかったってことが、もの凄く大きいと思ってます。特に、この頃、ひたひたと感じます。もちろん、特需で儲けたりとか、朝鮮戦争で。それで経済を再建したとかね。そういうことは、いっぱい起こってるんですけど。でも、やっぱり、戦争をしなかったっていうのは、日本の女たちが戦争をしたくないって、ほんとうにちゃんと、そういう気持ちを強くもって生きていたこと。だいぶ年を取って、亡くなってる方も多いですけど。それから、原爆の体験を子どもたちの代まで……、ぼくもケロイドだらけの人が家を訪ねてきて、物乞いのためにケロイドを見せるっていうことを体験してます。それで、1952年に、被爆地のもの凄く生々しい写真が出版されるんですけど、占領軍が許可しなかったからですよね。でも、その前に聞いてました、原爆がどういうことになったか。それで、話が飛ぶようですが『ゴジラ』というのが出てきたときに、ぼくはあのとき中学生だったのか、小学生だったのか覚えてないですけど、怪獣ものを見に行くという気楽さじゃないんですよ。水爆実験の結果ゴジラがやってくるっていうんでね、ただごとじゃないインパクトを感じてたんです。それで、同時に、ニュース映画フィルムでやってたのは、ビキニ環礁の水爆実験のフィルムですからね。これは、もの凄く恐ろしかったです。そういう、戦争と原爆から繋がる記憶を持ってたから、やっぱり戦争をしてはいけないというふうに、それが国の中心として定まっていたんだと、ぼくは思いますよ。それが、70年過ぎると、だいぶ怪しくなってきた、ということだと思うんです。それについてとやかく、ぼくは言いませんけども、ぼくが50年この仕事を続けてこられたのは、日本がいろいろあっても経済的に安定してたこと。安定してたのは、やっぱり戦争しなかったことだって、ぼくは思ってます。それを喋ったんです。こんなに長くは喋りませんよ。
――最後に3番目、「今日、モーリン・オハラさんにお会いできて嬉しかった」
宮崎:
あの、今日来て、いちばん嬉しかったのは、モーリン・オハラにお会いできたことです。やっぱり、美しいと思いましたね。怖そうな人ですよねぇ。ああいう人を生身で、自分の彼女にできた男は大変ですよね。ねぇ、鈴木さん。アイルランドの女性ですからね。もう、ピシッと通ってるんですよ(笑)。今日の、大収穫はモーリン・オハラさんにお会いできたこと。
安定なんてない。貧乏する覚悟でやれば、なんとかなる
――アカデミー賞の新規会員にノミネートされていますが、お受けする気はありますか?
宮崎:
いえ、あれは黙っていれば、そのまま立ち消えになるんです。前も、そういうことあったんですけど、静かにしてると別に、何千人もいるんで、そういうのもいるんじゃないですかね。そういう対応の仕方には、迷いはないようですから。だって、そうなったらいっぱい映画観なきゃいけないじゃないですか。嫌ですよ、そんなの。
――日本の若いアニメーターに、何かエールはありますか?
宮崎:
それはもう、アニメーターだからということじゃないですね。大事になってしまうからやめますが、まあ、貧乏する覚悟でやれば、なんとかなりますよ。
ぼくらは、アニメーターになったときに、アニメーターなんて言っても誰にも通じないですよね。漫画映画って言っても、「ん?」って言われてね、「ポパイか?」って言われるぐらいで。そういう仕事があることが、周りが認知してなかったけど。「画工(がこう)」って言葉があるんですよ。それで、絵描きっていうふうに、『草枕』で漱石は使ってますけど。職業で絵を描く人間ですよね。芸術的な何かで絵を描いてるんじゃなくて、職業で絵を描く人間を「画工」と呼ぶんです。それになるわけですから、それは目の前に広々とした道なんか、広がりっこないんです。そう思ってやると、アニメの仕事っていう道路があるんじゃなくて、結局なにもないとこ歩くことになるから、その覚悟を持って、一生懸命やるしかないんだと思います。それは、いつもそうなんだと思います。大丈夫ですよ、何も安定しないから、他の仕事も。そういう時期に来たと思いますから、みんな同じだと思って良いと思います。
オスカー像はジブリ美術館に寄付する
鈴木:
ぼくが聞くのもなんですけれど、宮さん5年ぶりですよね、アメリカ。
宮崎:
そうでしたっけ?
鈴木:
そうなんですよ。『ポニョ』以来、久しぶりに来たんですよ。どうですか、アメリカは。
宮崎:
炭酸ガスの問題を真剣に感じてないですね。ディズニーランドも、ホテルでエアコンが効いてる、寒い、外は暑い。外にタバコ吸えるとこ見つけたんですけど、暖炉が燃えてるんですよ。壁がへこんでて、奥に暖炉が作ってあって、今消せば良いじゃないね。部屋のなかエアコン入れてるときは消せばいいのに、消すぐらいならつけておいたほうが楽だって発想でしょう。
鈴木:
オスカーは、嬉しくないんですか?
宮崎:
鈴木さん、まえ貰ったとき嬉しかった?
鈴木:
いやいや、たぶんね、これ最後になるんですよ。アメリカでこの賞を頂くと、もう二度といろんな賞が出ません。
宮崎:
いいよ、それで。
鈴木:
そのことが嬉しいんですね(笑)。
宮崎:
いや、そんなこっちゃなくて。長編を作って、もの凄くお金をかけてね、今から準備して5年後だってなったら、どこかで死にもの狂いで回収しなきゃいけないって思うじゃないですか。だけど、それはないから、ぼくは楽なんです。
――オスカー像はどこに飾られますか?
宮崎:
飾らないです。一応、家族には一回見せますけど。鈴木さんの部屋に……。
鈴木:
いや……、最後だから、ちゃんと自分で持っててください。まえのやつは、ぼくのとこに置いてあるんですよ。
宮崎:
ジブリ美術館に寄付してしまうって手もあるね。
鈴木:
あ、それが良いですね。いちばん良い案ですね。
宮崎:
こんなの地震のとき倒れて、落っこちてきたら危ないですよ。
オスカー像は重過ぎる。ダンベル体操になりそう
――アメリカのメディアに「生涯アニメを作り続ける」と仰っていたのですが。
宮崎:
ええ、それはそうです。絵を描くことを辞めましたってことには、ならないと思いますよ。紙と鉛筆、絵の具と絵筆も、ペンもインクも、全部やっていくと思います。出来なくても、滔々とやろうとすると思います。そういうふうに生きようと決めてますんで、それは仕事としてなるか、ただの道楽になってしまうか、そこらへんはまだ判断つきません。美術館の展示で、『クルミわり人形』について、半年くらいバタバタしましたけど。それが、仕事かって言われたら、仕事でこんなことできるかっていう。じゃあ、道楽かって言われたら、「いや、仕事です」っていう、よく分からない領域にあるんです。
鈴木:
性格ですよね。たぶん、ずっと働くんですね。
宮崎:
そうすると、死ぬのは早くなるだろうと思いますけど。モーリン・オハラさんくらいはいけないよねぇ。ちょっと、今日はほんとうに素敵なものを見ましたね。指、太かったです。ほんとう。大柄なんですよ。
鈴木:
生活のなかで形作られた手足なんですかね。
宮崎:
う~ん……、なんちゅう話をしてんですかね(笑)。こんなこと実現するなんて思わないじゃないですか。人生なにが起こるか分からないですよ。
鈴木:
興奮の記者会見でした。
奥田:
オスカー像は、ジブリ美術館に飾られるということで、宮崎さんお疲れ様でした。これで、アカデミー賞名誉賞受賞の記者会見は終わります。
宮崎:
このために、わざわざここに来たんですか?
(記者に向かって)
――ずっと待ってたんですよ。
宮崎:
可愛そうに……。飛行機、大変ですよね。
鈴木:
いや、ロス在住の人も多いんで。
奥田:
ちなみに、日本から来たって人は?
宮崎:
お疲れ様です。来て良かったって思いました? 何かサービスしましょうか?
鈴木:
どうぞ、やってください(笑)。
宮崎:
やっぱいいです、何をサービスして良いか分からない(笑)。
……これ(オスカー像)、ちょっと持ってみてくださいよ、どれだけ重いか。
奥田:
各社、みなさんどうぞ持ってみてください。持って帰っちゃダメですよ。
宮崎:
重いでしょう。こんなのトランクに入れてたら、嫌んなっちゃうよね。殺人事件起こせますよ。
鈴木:
これは、凶器になりますよ。
これ、いろんな賞のトロフィーの中で、いちばん重いですね。
宮崎:
ダンベル体操になりそう。