コクリコ坂からジブリの最新作「コクリコ坂から」を観てきました。
監督は、宮崎駿の息子の吾朗さん。ゲド戦記での失敗が記憶に新しいところですけども、今回は企画・脚本を宮崎駿さんが担当しています。ゲド戦記のときは親子喧嘩をしてましたが、今回は駿さんも息子へ助け舟を出しています。親子による、はじめての合作。演出家としての実力が試される作品です。



ゲド戦記のときは、半ば、作らざるを得ない状況におかれて、仕方なしに監督をした吾朗さん。
ほとんどが、宮崎駿の借り物で作ったような場面構成で、なんとかしてメッセージを込めようと、背伸びしすぎた映画に感じたけれど、今回の「コクリコ坂から」は、まったく別人が作ったような作品だった。
簡単に言うと、ゲド戦記のときは、ジブリ作品っぽくなるように、宮崎駿の真似だけして作っていたと思う。

今回は、真似事ではなくって、自分の持っているものを、クソ真面目に表現したという感じ。駿さんのように、イマジネーションが優れているとか、突飛なアイディアがあるわけじゃないけれど、高畑勲さんのようなリアリズムを追求する資質をもっているように感じた。
ジブリファンとしては、ジブリ存続の活路が見えるのは嬉しいことです。

コクリコ坂から

この作品の舞台は、1963年の横浜。
言ってみれば、父親宮崎駿の青春時代を描いた映画です。話の内容も、立派な父親のお陰で、二人が幸せになるというラブストーリー。舞台となる、「カルチェラタン」という部活動用の古びた建物が、存続の危機に面したときに、それを救ってくれるたのも、やはり立派な“大人”です。
とにかく、父親たちが輝いている。見方によっては、「どうだ、昔の大人って凄いだろ」と、「昔の日本は良かっただろ」と言っているようにも感じます。実際、この映画の企画をした宮崎駿さんのなかには、そんな想いもあったのかな、という気もしますけど。
それを、わざわざ自分の息子に作らせた、駿さんも凄いし、監督を引き受けた吾朗さんも凄いです。

この映画を作るにあたり、駿さんはこのように言っています。

やはり東京オリンピック以降、日本は変ったんですね。ある時期から若者達が「この世界はずっと同じものが続いている」と思うようになっているんですよ。歴史的な時代の変化がこの国にあったということが届いていないんです。

人はどういうふうに生きなければいけないのか、ということを。志をどういうふうに持たなければいけないのか、ということを。ずっと人間たちは考えてきたはずなのに、お金という物資の崇拝がますますはびこって経済の数字の話ばかりをするようになった。
それは、特に1980年代以降だと思いますけれども、それがにっちもさっちもいかなくなって、まだ二十歳の娘が自分の年金を心配するという愚劣なことになったんです。自分の可能性を、いったいどういうふうに思っているのか。

若者像がずいぶん変ってきました。最初の就職活動に失敗したらおしまいという。就職活動に成功した学生たちも、寒気がするぐらい情けないことをしゃべっていますよね。「私はこうやって生き延びた」みたいなね。働いてもいないのに、就職活動がゴールだというのは滑稽ですよね。
若者は修業が必要なんです。でも修業をしないんです。テレビを見ていれば、インターネットを開けば、修業しなくても済むと思っている人が多すぎる。あまりにも足元だけを見て生きている。一人の人間として、ちゃんと旗を揚げること、そういうことを表現する映画ができないかと思ったんです。

コクリコ坂から

この映画の企画をしたときは、当然、震災の前だったわけですけども、震災後の現在でも、この映画の伝えることは、この時代に耐えうるものになっています。
今の日本は、エネルギー問題が生じています。これまでの、ゆるやかな時代の変化とは違って、これからの日本は、急速な価値観の変化が求められることになりました。
きっと、僕らの世代では経験していない速度で、時代が動いていくと思います。
そのときに、時代の変わり目がきたときに、どこを向いて進むのか。ということを、問う映画です。

コクリコ坂から

吾朗さんは、現在とこの先の道を照らすために、50年前の世界を描いています。
それは、俊が討論会で叫ぶ台詞に現われています。

「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」
「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」
「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」

この台詞は、宮崎駿の脚本には無かったもので、吾朗監督が後から追加したものなんだとか。
生硬で、スマートでない表現が、いかにも吾朗さんらしい台詞です。

過去を知ることは、自分の居場所を知ること、自分の進む道を照らすこと。
先人のやってきたことを、ないがしろにしてはいけない。
台詞で説明してしまうところが、愚直な宮崎吾朗監督らしいところです。

“これから日本は、どこに向かって進むのか”という意識が、皮肉にも震災によって高くなったときに、この映画が公開されたのは不思議なもんです。

きっと、これからは、部分的に時代が戻っていくだろう、と僕は思っています。
先人の生き方に還ることが、必ずしも文明の後退とはなりません。忘れかけていたものをブラッシュアップして、洗練させていくことも大事なことです。道というものは、振り子のように行ったり来たりしながら、同じところのいるようで、少しずつ高台へ上っていくものなのだから。

それにしてもこの映画、いかにもジブリらしい恋愛ものだった。